第十四夜.影










「春弥君起きてよ」
「…なに…」
真夜中の一時一分。春弥は櫻井に肩を揺さぶられて、上下ぴたりとくっ付いていた瞼を持ち上げた。
縮まった身体をぐぐぐと伸ばす。周囲を見回せば、ベッドに横たわる雫の背中。静かな寝息をたてて眠る幹靖、そして見張りのくせにこっくりこっくり頭を揺らしている和雄。…どうりで櫻井が平気で姿を晒したわけだ。春弥は枕元に置いておいた眼鏡に手を伸ばすと、櫻井に向き直った。
「なにか用か?」
暗闇では、彼の蜂蜜色の髪もくすんで見える。
「実は目が冴えてしょうがないんだ、散歩に行こう」
「…仮にお前に規則正しく寝るという習慣があったとしてもだな、そこで俺を起こすのはおかしいと思わなかったのか?」
「たまには違う行動も起こさないと、この世界はクリア出来ないよ」
まるでゲームのような言い方をする。彼にとってはこの世界で春弥達が生活していることもお遊びのようなものなのだろうか。
…あまり話していても他の連中が起きてしまうため、春弥は布団からもそりと抜け出した。制服に腕を通し、忍び足で表へ出たのち、月明かりに覚醒を余儀なくされる。溶けかけた住居やひび割れた地面を見ても、もはや驚くこともない。勿論、当然のように透ける櫻井の存在も。
「…櫻井」
「それにしても酷い世界になったものだね。住み心地の方がどう?」
「…まずまずだな」
「慣らされてるなあ。感覚が麻痺してきてるんじゃないの?」
駄目だよそんなんじゃさあ。と、櫻井は言う。自分が住んでいる世界でもあるだろうに。
春弥は彼と二人並んで歩きながら、僅かな肌寒さを感じた。…今は夏だったか冬だったか。春先だったような気もする。横から薄い上着を差し出されて、彼は目を見張った。…櫻井。
「おい、…お前が優しくても気持ち悪いだけだぞ」
「ひどいなあ。人の親切は素直に受け取っておくものだよ。相変わらず可愛くないんだから」
「…礼は言わないぞ」
春弥は櫻井を完璧には信用していない。和雄の件で櫻井自身に指摘されてからは、彼の言葉も参考程度に留めている。したがってそんな彼に親切などと抜かされても、胡散臭いだけである。春弥は櫻井の上着を引ったくるように奪い取ると、制服の上から羽織った。透けもしない。この世界も彼の生態も出鱈目だ。
「櫻井」
「なあに」
「お前にとってこの世界の住み心地はどうなんだ」
「はっは…とても悪いとしか言い様がない」
「ならなんで…」
この世界に留まっているのか。そもそも彼は何故、此処にいる?春弥達と彼の他には誰もいないというのに。…神以外。彼の立ち位置だけ明らかに浮いているではないか。櫻井は横目で春弥を流し見て、小さく笑った。
「僕にはこの世界以外ない。当たり前のことだろう?誰だって狭苦しい一つの世界を行き来している。世界は広がったり増えたりするものじゃない。もともと一つさ、知らないだけでね」
「…同じ世界は世界でも、場所が変われば環境も変わるだろ」当たり前過ぎることを言っている気がする。
「でも変われないこともある。君たちのような学生なんて特に顕著だ。旅行が趣味なら別だけど。それと同じことだよ」
…今日の櫻井は妙に真面目に話している。そういえば初めて会った時はこのような話し方をしていた気がする。最近は彼なりに気が緩んでいたのだろうか。分からない。むしろ今日に限ってどうしたのだろう。かえって不気味だ。…どうやら春弥は常日頃の適当な彼に慣らされ過ぎてしまったらしい。
落ち着かない気持ちを紛らわすように足下の石を蹴飛ばす。小学生くらいの頃は毎日のように石ころを蹴飛ばして帰っていたものだった。子供の頃は今思えば些細なことに夢中になっていた。…今なお、春弥のアイデンティティそのものに根差しているものもあるけれども。
「ただ君はもっと足掻かないと駄目だよ。でないと、出られないよ」
出られない?何処から。この世界から?櫻井の言い方では世界は一つだと言う。なのに出ろと。やはりこの世界は特殊なパラレルワールドなのか?はっきり言って欲しい。足掻く?どうやって。何も分からないこの状況下で。
「”神”様に聞いてみればいい。教えてくれるかもしれないよ、彼は優しいから」
「神と知り合いなのか?」
以前神とは何かと聞いたとき、しらばっくれられた覚えがあるのだが。本当にしらばっくれていたのか。
「彼は…あ、着いた」
「あ?」
櫻井はそう言いかけて、前方を見上げた。つられたようにそちらを見遣ると、大きな建物があった。…学校か。櫻井は身軽な動きで門を飛び越え、中へと侵入を果たした。春弥にも入って来るよう促す。春弥は仕方なく門を越えると、そびえ立つ学校を見上げた。ここしばらく来ることもなかった所為か、懐かしいような不思議な気持ちになる。
「此処はあまり壊れてないんだな」
近隣の住宅と比べると窓ガラスの破損等も少なく、原型を保っているように見える。櫻井は下駄箱の番号札を指先でなぞった。
「履き替えれば?」
「あ、…ああ」
一応土足はまずいのか。上履きが擦れてきゅっと床が鳴く。薄暗い廊下。幻を見そうになる。
「なに、怖いの?」
櫻井が馬鹿にしている口調で爽やかに笑う。恐ろしくうっとおしいのに清涼的な雰囲気が漂っている。殴っても非は完全にこちらに押し付けられそうな。
春弥はしけた溜め息をついた。幻も何もこの青年自体が幻だ。彼の身体はすり抜ける。彼からの一方的な接触に頼り切った間柄。…ふざけている。
「馬鹿言えよ…」
「そう?怖いなら無理せずお兄さんに掴まって良いんだよ」
「本気で気色悪いからやめろ」
唸るような声を出せば、櫻井はうふふと微笑んだ。悪酔いしているかのような態度。苦手だ、こういう奴は。
春弥は櫻井の脇腹を軽く小突いた。ポリエステルの化学繊維じみた感触。シャツ。衣類。潜んだ体温。春弥は触れられたことに驚いて口を開けた。しかしすぐに手はするりと彼の身体を通り抜ける。
「いやあ本当に便利な身体でね」
「…」つくづくどうなっているのだ彼の身体は。
「前にも言ったように僕は世界の一部なんだよ。だから世界にもよく溶ける」
…彼の言うことは分かりそうで分からない。少々「だから」の使い方が強引過ぎはしないか。
二人は三年一組の教室に辿り着いた。部活動に加入していない春弥の場合、他学年の教室に出入りする機会など一度もなく、教室も余所者を見る目で春弥を迎えた。その間櫻井は意味があるのかないのか、ふらふらと教室内をうろつき回っている。そして数分後、気が済んだのか春弥のもとへ戻ってきて、「行こう」とまた先を歩き出す。彼は何がしたいのだろう。まるでこの世に未練を残した者がこれから旅立つと言わんばかりに。…不吉な。まだ何も聞いていないのに勝手に消滅されても困る。
「おい櫻井…」
「ああ、もしかして喉渇いた?」
違う。…いや、違わない。確かに喉は渇いた。
櫻井はてくてくと階段下の自動販売機の前に立つと、ズボンの後ろのポケットから小銭を取り出し、自販機に押し込んだ。投げられたのは飲むヨーグルト。…これは近頃お盛んな春弥に対する遠回しな嫌みなのか。それともただの考え過ぎか。パックにストローを突き刺し、春弥は一気に吸い上げた。喉の奥に甘ったるく冷えた液体が流れ込む。
「櫻井」
「うん」
「これ賞味期限大丈夫なのか?」
飲んでから言うことでもないが。パックの表示を見ると2010.5.21。まだ大丈夫そうだ。…そう思いかけて、現在の季節を思い出す。一応春なのか。最近は異常気象も多いので、時折ふと季節を忘れてしまいそうになる。特に一日中真っ暗闇な世界では尚更だ。
櫻井は缶コーヒーに口をつけながら階段をひたすら上っていく。よくも飲みながら歩けるものだと半ば感心しながら、春弥も後を付いていく。吹き抜ける夜風。レンズの向こうで瞬く星の目映さに、春弥は目を瞑った。闇に慣れた目に突然の輝きは堪えるものだ。けれど櫻井は平気な顔をするどころか鮮やかに微笑んでみせた。手すりに身を乗り出し、大きく空を仰ぐ。
「やっぱり此処は気持ちいいなあ!」
春弥は微かな冷気に借りた上着を握りしめながら、もしかしたら此処は櫻井の母校なのかもしれないと思った。わけの分からぬ存在に対して、懐かしむ母校があるなどと馬鹿げている発想なのかもしれないけれど。春弥は櫻井の隣に並び、同じように空を見上げた。上だけ見ていれば、滅びかけた下の世界は視野には映らない。ほの白く反射している下弦の月。櫻井の髪が風に煽られ、宙を踊る。
「あの時もこうして…」
「…櫻井?」
薄雲が靡いて月を覆い、影が朧げに輪郭を無くす。希薄な気配が更に揺らいで、春弥は思わず彼の腕を握りしめた。
「あれ、どうかしたの?」
触れられる。…春弥は安堵し、ゆっくりと腕を放した。月が再び顔を出し、伸びた影。
「だってお前今…」
「今?」
「…妙なこと言っただろ」
あの時。あの時というのは何時のことだ。櫻井はきょとんと不思議そうな顔をする。嫌な予感。
「ああ、もしかして今何か言ってた?」
「何かって」
「何でかなあ。たまに自分が何を言っていたのか覚えてない時があるみたいなんだよね」
彼は大して気にはしていなさそうな口振りでそう言うと、大きく手すりを乗り越えた。春弥は困惑も打ち消せぬまま、手すりの内側から叫んだ。
「馬鹿!危ないだろ!」
時折無駄に年上面するくせに、どちらが子供じみているか分かったものではない。
「心配しなくとも僕は死なないよ」櫻井自身はさっぱりしたものだ。とことんふざけた男である。
「死ななくとも心臓に悪いんだよ、さっさと戻って来い」
手すりの内側に留まっている春弥の方が、櫻井を戻らせようとみっともないくらいに必死になっている。客観視してみても無様過ぎて春弥自身逆上しそうだ。とはいえ、この状況では落ち着くものも落ち着かない。
「せっかくこっちの方が解放感あるのになあ、もったいない」
櫻井はやれやれと言いながらこちら側へと戻って来た。春弥の前で屈み込み、視線を合わせたかと思えば、春弥は髪をぐしゃりと撫で回された。彼の落ち着いた声色と邪気のない笑み。
「ごめんね?」
「…ッ」
春弥は俯き、唇を噛み締めた。深い安堵と屈辱の混じり合った奇妙な感情が胸の中をせめぎあう。前者はまるで迷子になった子供が親に見つけられたときの気持ちに似ていて、春弥はどうしようもなく苦い気持ちになった。櫻井が親だなどと、冗談ではない。
「じゃあそろそろ帰ろうか」








結局何のために春弥は彼の散歩に付き合わされたのだろう。
春弥は空になったパックを手に、雫の家までの坂道を下っていた。横には櫻井がいて、彼は徐に電柱の影を指差した。
「君たちの言うアレって奴は、ああいうところにも実は潜んでいたりするものなんだよね」
「おい…」
まだこの上危なっかしいことをするのかと、春弥は呆れながら身構える。櫻井は電柱の方へと歩み寄り、それを指先で摘まみ上げた。水分の詰まった煤けた塊。それはにゅるんと手足を宙へ伸ばし、櫻井の腕に絡み付いた。彼は微笑んだまま、春弥に手のひらの上のものを見せた。
「散歩に付き合ってくれたお礼にあることを教えてあげよう」
「…」
とにかく今はその手のひらの物を遠ざけて欲しいのだが。
アレ…今は其れというべきか…は何本もの手足を伸ばし続け、春弥の頬すれすれのところまで迫っている。櫻井だからこそ大丈夫だろうと踏んでいるのだが、非常に気分が悪いことに変わりない。春弥は櫻井とは異なり、触手に巻き付かれる趣味はないのだ。
「これはね、人間と同じでちゃんと心臓があるんだよ」
櫻井の手の上でぶるるんと震える。こうして其れをまじまじと観察するのは初めてのことだ。透けた成分を通し、毛細血管のような本当に細い血管が張り巡らされている。中心には脈打つ臓器。一見して肥大した単細胞生物にも見えるが、中のむっちりと詰まった構造物は多細胞生物のものだといえる。気持ち悪いが美しい。矛盾しているだろうか。…ただこれには、以前見たような虫の死骸は混じっていない。
「よく見てごらん、ほらこれ」
覗き込みはせず、視線だけ送る。その間もそれはどろりと彼の腕や地上を這い回り続ける。…内部構造はともかく、動きは美しくない。だが人によってはこれを美しいと感じることもあるだろう。吐き気のするような気持ちの悪さと美は紙一重だと春弥は思っている。
そして、心臓。
薄黒く透けた生命体の中心に、赤黒く脈打つものがある。
「見た?」
「…見た」
「じゃあもういいね」
ぶちゅく、と櫻井の手の中でそれは握り潰されて破裂した。黒く粘着質な物質があちこちに飛び散る。春弥は唖然とした。それらは散らばったのちも、地面や電柱や彼の服の上でぴくぴくと動いている。春弥は顔を背け、櫻井は服に付いたそれらを手で払い落とした。
「心臓を潰せば死んでしまう。人間と一緒だね」
笑いながら櫻井は悲しげな眼をする。失われた命を惜しんでいるのか、それともあまりの脆さを嘆いているのか。彼は唇を歪める。
「…どうやら君の幼馴染み君が迎えに来たらしい」
「え」
「じゃあまた。これには気をつけなきゃ駄目だよ。…特に君の場合はね」
しゅるんと櫻井の姿は薄まって消えた。跡形もない。そしてほぼ同時に、背後から声を掛けられた。雫の声だった。
「…岩崎」
振り向いた先には、寝巻に制服の上着を羽織った雫が立っていた。手には懐中電灯が一つ。
「…何処に行っていたんだ」
「え、あ、いや、その」
吃る。何と言えば良いのだろう。一人で散歩していた。寝付けずに?
雫は舌打ちして、春弥に背を向けた。雫の家までは少し距離がある。…わざわざ探しに来たのだろうか。
「…あの、岩崎」
「手間かけさせるな、馬鹿が」
彼は振り向きもせず歩き出す。春弥は彼の横に並んで、ぶるりと肩を震わせ……と、櫻井に上着を返すのを忘れていた。雫は何も言わないが、気付いているのだろうか。春弥の羽織っている上着が彼の見覚えのないものだと。もともと春弥が持っていたものだと思っているのだろうか。聞くにも聞けず、春弥は空を見上げた。瞬く星。
「…星が奇麗だな」
「……ああ」
…まさか返事が返ってくるとは思わずに、春弥は雫の横顔を凝視した。そして彼のことだ。春弥に見つめられて気に障らないわけがない。予想に違わず、すぐさま春弥は横っ面を殴られた。そのうち眼鏡が割れるのではないかと春弥は不安になりながらも、ふと彼の眼のことを思った。
…今はこうして景色がどうだとか互いに感動を共有することもできるが、もしも再び彼の眼が見えなくなるようなことになったら。一度手にした視力をまた失うことは、彼にとって相当な苦痛なはずだ。一度失ったことがあるのだから慣れるのも早いだろうという問題ではないような気がする。
そしてそれは間違いなく春弥の所為であって。
「岩崎…」
押し殺して来た責任という重責が、心の奥底から浮かび上がってくる。重しを付けて沈めても、いつのまにか紐がほつれて水面付近を彷徨い始める。だが春弥に何が出来るというのだろう。謝ったところで雫も、そして春弥自身も、許されることではないと分かっているのに。