第十三夜.秘め事








月の如き青年は、幼き青年に纏わりついていた黒く煤けた生命体を、白魚のような手でぐちゃりと握りつぶした。









またしても家の中の空気が澱んでいる。
雫は何を考えているのか引きこもっているし、隣で人参を切っている和雄はまた雫に何か言われでもしたか、不機嫌さを隠そうともしない。突然狂乱して包丁を振り回さないことを祈るのみだ。もしも暴れたら幹靖に頑張って押さえてほしいところだが、彼はハンバーグの種を根気よく混ぜ込んでいる最中だ。種。…色々と不可解に反転している世界だが、まさかな。悪阻の症状は現れたりはしていないようだが。
「幹靖」
「まだ焼くには早いよ」
「そうじゃなくて」
春弥は台に沿って幹靖の横にひたりと近付いた。和雄に睨まれているような気がする。考え過ぎか?わざとなのかこちらを振り向こうともしない幹靖の耳許に唇を寄せ、囁くような声で尋ねた。
「お前、あれから吐き気がするとかないよな?」
「吐き気?」
「妊娠の症状とか出てないよな」
…その瞬間、彼の手の中でハンバーグの種がぐちゃりと潰れる音がした。出来れば静かにしてほしい。和雄に聞かれたら殺される。間違いなく包丁で刺される。幹靖は顔を火照らせると、エプロンで乱暴に手を拭って春弥の腕を引いて台所を飛び出した。和雄を置いて行ってどうなっても知らないぞ、と春弥は内心呟く。
廊下に出るなり、幹靖は腕を組んで春弥を睨め付けた。顔が赤いので全く迫力がない。
「シャツが汚れるぞ」
「どうせ洗うから良い。そんなことより、鷲宮くんさっき何言った?」
「妊娠の症状とか出てないよな」
同じ台詞を繰り返すと、彼は唇を噛み締めて、聞かれた内容が耐え難いと言わんばかりの顔をした。どうやら櫻井の言う通り、相当深い悔恨を植え付けてしまったらしい。
強張った笑み。
「…鷲宮くんはちゃんと俺が男だと理解した上で聞いてるのかな?…」
「ああ」
「あるわけないだろ」
「そうだよなあ。でもついこの世界色々とおかしいから心配になってさ」
口先だけで言うのは簡単だ。本音では多少そうなっても面白いと真逆のことを考えている。春弥は舐めるように彼の身体を眺め回し、ずい、と上体を近づけた。幹靖は後退しようとするが残念なことに後ろは壁だ。エプロンを指で引っ掛け、春弥は意地の悪い笑みを浮かべた。
「弄り過ぎて敏感になってるのか?」
昼は制服の上着を着て誤摩化していたのだろう。ワイシャツだけだと胸の突起がぷくりと尖っているのがよく分かる。幹靖は今度こそ耳まで真っ赤になって、春弥の手を払いのけた。
「…っ放っておけば治るさ」
「どうだろうな、服で擦れて落ち着かないんじゃないのか」
「っ煩いなあ、もう。…いい加減戻らないと和雄が心配する」
むしろそんな真っ赤な顔して戻った方が怪しまれるのではなかろうか。春弥は幹靖の細い背を見送ると、込み上げて来る笑いを堪え、彼に続いて台所へと戻った。和雄の視線が痛い。ただでさえ疑心暗鬼気味な和雄の前に、如何にも何かありましたという顔では、心配させるも何もあったものではない。春弥は何気ない素振りを装って調理の続きに取りかかった。
しばしの沈黙。
…幹靖が口を開いた。
「…神と月の件に関してなんだけど」
「…ああ」
「鷲宮くんは岩崎にこのことを伝えるべきだと思う?…幼馴染みとして」
…いきなり真面目な話を振ってきたものだ。春弥はスープを掻き混ぜながら切り返した。
「俺は言っても良いと思ってる。月とは別としても…岩崎は自分にアレが寄って来ない時点で変には感じてるはずだからな」
「…彼が知って悩まなければ良いなとは思うんだけど」
「否、逆に言わなかったら言わなかったでのちのち『どうして言わなかったんだ』って俺が蹴られるだろうな」
…本当に雫の蹴りは強烈だった。思い出すだけで腰に鈍痛が蘇ってくる気がする。彼は少し手加減というものを知るべきだと、春弥は自分のことは棚に上げて思うのだった。しかし何を思ったのか、春弥の言葉を冗談だと受け止めたのか、幹靖が小さく笑った。…この世界の影響なのか、前よりも彼の笑い方は悪意がなくなったような気がする。そして彼の奇麗な微笑みは春弥の居心地を悪くさせる。
「なんだよ?」
「…いや、二人はお互いのことをよく分かってるんだなあと思ってさ」
…雫は幹靖に何か言ったのだろうか。考えたくもない。雫が春弥に関して言うとすれば、謂れのあり過ぎる誹謗中傷や罵りに他ならない。










「不法侵入しているんだ、突き落とされても文句は言えないぞ」
雫は手にしていた果物ナイフを窓に向かって放り投げた。切った林檎をしゃくりと口に運ぶ。窓枠に腰掛けた青年は澄ました顔でナイフを受け止め損ね、指先を痛そうに押さえた。反射神経はあまり良くないようだ。
「…お前が神か?」
「君の友人の彼にも言ったが、僕はそんな大それたものじゃない」
「お前が神でも変質者でもこの際どうでもいいが、いったい何の用だ?」
雫は二つ目の林檎の欠片を口に放り込む。神又は変質者を相手に悠長な態度である。青年は血が出た指先を口で咥えながら、雫の前に立った。
「君に頼みたいことがある」
「人に頼む前に自分でどうにかしろ」
「君にしか出来ない」
果たしてこの青年の言葉、存在は信用たるものなのかどうか。
林檎を乗せた皿を横に置き、雫は青年を見据えた。
「聞くだけ聞いてやる。言ってみろ」










だから和雄と二人きりは気詰まりで嫌なのだ。
春弥はソファで和雄の隣に腰掛け、テレビを観ていた。正確には、視線の先にテレビがあるだけでテレビを見ているわけではない。
「それで、どうなんだよ」
と、和雄。
「さっき二人で何話してたんだよ、…今朝だって」
どうしてこう幹靖が席を外しているときに限って、否、外しているからこそなのだろうが…和雄は春弥に詰め寄ってくるのだろうか。春弥がリモコンでテレビの電源を切ると、急にリビングは静かになった。和雄との間を隔てる透明な静謐。冷熱の差。これも茶番だ。
「何って、別に…神のこととかさ」
台所で話したのは主に月のことだ。けれど和雄は突っ掛かってくる。…あんな顔を見れば当然だろう。気付かない方が阿呆である。
「けど…!」
しかし悲しいかな、その違和感を和雄は上手く説明出来ないでいるようだ。春弥も幹靖も同性だ。想像もつくまい。ついたところで、それこそ頭がおかしいと思われる可能性がある。春弥が「和雄はそんな目で幹靖のことを見ていたのか?」とさえ言えば十分だ。和雄は貶されることを何よりも嫌っている。和雄からそんなことを切り出せるわけがない。
「…神かもしれない奴に会ったって言っただろ?」
「うん」
「神はどうやら人の心が読めるらしい。それで実は…和雄、神はお前の心配をしていたんだ」
実際にしていたのは櫻井だが。
和雄は驚いた顔をしている。それもそうだ。出会ったことのない神が和雄の心配をしているというのだから。そして彼の意識は神の方向へと傾く…知らぬ間に自分の話をされて、気にならぬわけがない。それが人の心理というものだ。特に和雄のように他人に依存し、自分自身に関してつけ込まれやすい、隙のある人間の場合。
「…余計なお世話だって言っとけよ」本当は気にしている。素直に聞いてみればいいものを。そうすれば嘘だと分かるかもしれないのに。春弥は困ったと言わんばかりの顔を作る。
「お前に直接言ったらそう言うだろうと思ってさ。それで幹靖に言ったんだけど、怒ってさ。俺の伝え方も悪かったのかもしれないけど」
「…みっちゃんが…?」
自分のために幹靖が怒る。これほど和雄が陶酔しやすい状況もなかなかない。恋は盲目とはよくいったものだ。気持ちよい感情を前に、嘘かもしれないという疑念は覆い隠されてしまう。雫や櫻井であれば鼻で笑って済まされるであろうことを、和雄は容易に信じ込む。夢を見過ぎだ。なまじ幹靖が人が良い…そう認めたくはないが、犯されて殴りもしないのだからお人好しにもほどがある…ものだから、和雄もあまり違和感を感じず幻想に浸れるのだろう。










制服の上着を脱いで、ハンガーに引っ掛ける。
脱ぐと同時にワイシャツで胸の突起が擦れて、ぴくりと僅かな快感が走り、幹靖は動きを止めた。シャツの上からでも分かるほど尖った突起が視界に映り、耳朶が熱くなる。脳裏に過る舐められたときの感覚、映像。
「〜〜…ッ」
頬が火照り、幹靖はぎゅっと目を閉じた。何を考えているのだろう。どうかしている。けれど一度蘇ってきた感覚は容易に消えず、突起は心無し硬さを増し、性器はスラックスを圧迫し始めていた。漏れる息すら熱に犯されているように思え、幹靖は駄目だ、と自分に言い聞かせるように洗面所の壁に手をついた。しかし静かに精神を落ち着けようとするほど、身体はじわりと熱を持ち彼の思考を蝕んだ。あそこに触れられた快感、嬲られた刺激が波打つように思考を何度も何度も反復する。こんなのおかしいと葛藤する反面、下着が濡れるような覚えのある感触に苛まれ、幹靖はその場にしゃがみこんだ。
想像しただけで先走りするなんて自分の身体はどうなってしまったのだろう。今も尚、「欲しい」と脳内が喚いている。この状態はおかしい。おかし過ぎる。たった一度、春弥に触れられただけだというのに。…駄目だ彼のことを思い出すと余計に。夕食の仕度をしていたときも、彼の視線が自分の身体を眺め回しただけで、以前突かれたところが疼いたような気がして。おかしい、変だ。自分で自分の身体が信じられない。元々性欲なんてものはあまりなく、嫌悪さえしていたものだったというのに。
「………っ」
幹靖は荒い息を押し殺し、恐る恐るシャツの中に手を這わせる。恐怖に似た何か。指先で硬くなった突起を探り当てると、喉が鳴った。瞼の裏を過る彼の姿。きゅうっと摘むと、駆け抜けた快感で身体がびくついた。息が震える。左手がスラックスの中へと滑り込む。
「あ…っ」
ぞくりと腰に悪寒が走る。胸の突起をこねながら性器に触れると、思考がぐちゃぐちゃと掻き回され麻痺していくような感覚を覚える。
「ふ、んん…っ…っ」
自分で慰めているというのに、度々彼が瞼の裏をちらついて、異様なまでに身体が昂ってしまっている。 彼は弄り始めてものの数分で、白濁した液を噴き出した。スラックスにべちゃりと精液が付着する。息が荒い。急速に冷静さを取り戻す理性とは反対に、身体の奥は物足りなげにひくひくと疼いた。