第十二夜.旋律










「岩崎が呼んでる」と春弥に言われ、幹靖は決して軽くはない腰を上げた。
昨夜あのようなことがあった所為か、腰…というよりも下半身に違和感がある。切れてはいないので痛いというわけでもないのだが。怠さ、というべきか。本来異物を受け入れる器官でもないところにあんなものを入れられたのだ、嫌でもそうなる。胸も散々弄られた所為か、ワイシャツに擦れると落ち着かない。…顔には出していないつもりだが。そのうち何ともなくなるのだろうか。
今思い返してみても、何故あのような事態に陥ったのだろう。春弥に対しては怒りや屈辱よりも戸惑いが大きく、何よりも恥ずかしさが込み上げて来て、思い出すだけでも顔から火が出そうになる。彼が見知らぬ他人ではなく友人ということもあったのか、触れられた直後の嫌悪感よりも快感に翻弄されてしまった自分が恥ずかしい。そもそも友人同士であってもあのような行為を強要されたのだから、もっと激昂してもいいはずなのだが、…どうにも駄目だ、怒れない。彼の行為を嫌だと思いながらも、感じてしまった自分に非があるような気がしてならない。萎んで消えてしまいたい。
幹靖は自分自身を情けなく、耐え難く思った。本当に、わけが分からない。恥ずかしい。非難出来ない自分が理解出来ない。
確かに怒ってはいるのだが、この連携が必要な状況下で彼との仲を拗らせるのは良くないと思うところもある…割り切れる程度の恥辱なのか?
…ひとまず今は昨夜のことは忘れ、雫と対面すべきだ。幹靖は春弥に渡された着替えを片手に、ドアをノックした。
…無愛想な返事が聞こえてきて、中へとお邪魔する。…赤い水滴に塗れた雫の姿。冷ややかな眼差しが宝石のように鋭利な輝きを放っている。
「倒れたんだって?」
「あの馬鹿の毒気に当てられた」
…春弥の毒気とはどういうことなのだろう。着替えを渡すと「悪いな」と彼は鮮血に塗れているかのようなシャツを脱ぎ捨て、さっと奇麗なシャツに腕を通した。いっそシャワーで洗い流した方が手っ取り早い気もするのだが、倒れたばかりで億劫なのかもしれない。
幹靖は目を見張った。
雫の…ちょうど心臓の位置するところに黒い影が浮かび上がっている。
「岩崎、それ」
「…アレの毒素が蓄積したものだろうな」
彼は至って澄ました顔をしている。
「鷲宮くんにはもう言ったのか?」
「…いいや」
…幹靖はこの瞬間、何故自分が呼ばれたのかを悟った。
雫は春弥にこの影を見られたくないのだ。だが、何故…幼馴染みだろうに。雫は春弥を毛嫌いしている感があるがその所為なのだろうか。それとも純粋に春弥に心配をかけたくないだけなのか、…別の理由があるのか。
彼は指に垂れた赤色をティッシュで拭いながら、不機嫌そうに微笑した。…ベッドも後で洗濯しなければ駄目だろう。
「彼奴は病的なほど情緒不安定な奴だからな、余計なことを言えばまたグダグダ項垂れる」
…その認識は否定し難いところがある。駄目だもう思い出したくない。幹靖は舌を嚼むと、傍にあった椅子に腰掛けた。
…雫が気絶している間に、春弥が神かもしれない男を遭遇したことは伝えるべきだろうか。ただ、雫を月だと表現したことまでは……アレの毒素が蓄積したのだと先程彼は述べていたが、その毒素を蓄積させられる存在が月だということなのか。…だとしたら果たしてそれはどういうことを意味しているのか。将又それとは別に、月の定義があるのか。どちらにせよ、彼が月という特殊な存在であることを知らせるべきなのかは悩みどころだ。雫は自身に妙な役回りがあることを知っても、挫けたり動揺したりすることはないような気はするが。…一度、春弥に相談してみた方がいいかもしれない。彼なら雫との付き合いも長いだろうし、もう少し踏み込んだ意見も出してくれるかもしれない。…本音を言えば、彼と話し合うことに抵抗がないわけでもないのだが。
幹靖は沈黙したのち、再び席を立った。
「岩崎。何か他に必要なものがあれば取って来るよ」
…やはり、神らしき男のことも春弥と話し合ってから告げるべきだ。でなければ話の自然な流れとして、神が何か言っていたかと聞かれても上手く答えられない。変に詰まったりしては雫に怪しまれる。
「…今は良い。…後でな」
「ああ」
「緋田」
「?」
彼はもうこちらを見ていない。
「何かあったら俺に言え。いいな」
…それは遠回しに「鷲宮に負担になるようなことは言うな」と言っているのだろうか。
だとしたら、随分と捻くれた優しさである。幹靖は場違いではあるものの奇妙な微笑ましさを感じて、小さく肩を揺らした。図星だったのか、舌打ちが聞こえたのがよりおかしい。雫は不機嫌そうな顔をしている。
「勘違いするなよ。俺は彼奴がまたトチ狂った行動を起こしたら面倒だと言ってるんだ」
「分かってるよ」
まあそれもあるのだろう。幹靖は再び昨夜のことを思い出しかけ、秘かに溜め息をついた。…あのことばかりは、彼にも言えない。










「月って何なんだ、何かの隠喩なのか?」
単刀直入に切り込むと、櫻井は爽やかな微笑とともに肩を竦めた。
「さあ?読んで字の如く…じゃない?月の物」
「ふざけるのも大概にしろ」
春弥は眉間に寄った皺を解すことを諦め、険しい表情のまま櫻井の襟首を掴もうとした。手は空を切る。…数日振りに現れたと思いきや、相変わらず腹立たしい男だ。顔を見るたび血圧が上昇するのを感じる。
「岩崎は男なんだぞ、そんなものが来るわけあるか」
「月の物で月経を連想するだなんてやらしいなあ」
「…兎に角!月はこの世界では何を意味してるんだ」
どうしてこう…自分の周りにはこの手の無駄口を好む奴が多いのだろう。春弥は髪を掻きむしると、うんざりしたように溜め息をついた。幹靖に限って言えばこの世界に来てから無駄口は減ったものの、櫻井は元々この世界の住民だからなのか全く環境の変化にも堪えた様子がない…というか煩い。…元々の住民?
「…この世界はいつからあるんだ?」
「そんな一度に質問しないくれないかな。月ってのは何だろうねえ、”神”様も意味深なことだけ言って帰っちゃうものだねえ」
ここで一つ欠伸。真面目に話す気はこれっぽっちもないらしい。…櫻井は事実関係を知っているだろうに何故言わないのだろう?春弥は今更ながら思う。面倒なだけなら、度々煙に巻くよりもさっさと話してしまえばいいものを。
「それでこの世界は…そうだなあ。…僕にとっては物心ついたときからあったよ」
「お前の物心がいつからかなんて分からないだろ」
この世界の創造と同時に彼も発生したのであれば、年月などあってないようなものだ。…ただ、この世界、というのはどの世界だ?このいかれた世界が元の世界とは違うのかという確信は春弥には持てない。住民が急に消えたり超常現象が起きたりと奇天烈な状態にあるために、つい元の世界とは違うのだと考えていたが。…実際は分からない。もし同じ世界だとしたら、それこそ住民達は何処へ消えたのだ。在るはずのものが無くなるなどということが許されていいのか。…理屈がねじ曲がった世界では何を考えても確証はない。
「…お前が物心ついたときから、神は居たのか?」
「またそうやって何でも聞けば良いと思って」
口調とは裏腹に表情はにこやかだ。…この櫻井の歪さも世界の影響なのか?明らかに尋常でない。正常な状態で喜怒哀楽のうち負の感情だけ抜け落ちている人間がいてたまるものか。彼の場合人間なのかは別としてもだ。
「お前に聞くのが一番手っ取り早いんだよ」
「可愛くないなあ。もっと健気に調べてぼろぼろになればいいのに」
「良いから答えろ」
世界を脱出するのに手段を選んでなどいられないのだ。ゲームや小説でもあるまいに。
櫻井は飾り物のオルゴールの螺子を捩ると、ぱこりと蓋を閉めた。この場に似つかわしくない繊細な旋律が流れ出す。
「まあ常識的に考えて、いたんじゃないのかな?」
「お前らの常識に沿って話をされても、分かるわけないだろ」
「あんまり捻くれた考え方ばかりするのも良くないよ、もっと素直に物事を受け止めなきゃさあ」
うふふ、と櫻井は微笑する。ええいやめろ。春弥はむしゃくしゃする気持ちを押さえるように、腕を組んだ。大きく息を吐き出す。あまり長話をして和雄に怪しまれても困る。一応トイレだと言ってあるが、トイレにしては長過ぎる。腹でも下したのかと勘違いされるかもしれない。…和雄のことだ、あまり周囲のことなど気にしてはいないかもしれないが。
彼は最近は春弥を目の敵にしているため、居ない方が良いと思っている可能もはある。二人でいても息が詰まる。
「そうそう、その秋草和雄君」
「え?」
「今は良いけど、ちょっとは気にしてあげた方がいいよ。危ないよ」
「どういう意味…」
「人間の嫉妬ってやつは怖いものだからね、アハハ」
楽しくも何ともないところで櫻井は愉快そうに微笑む。人間様の足下の雑草なだけあって、笑いの感覚が違うのかもしれない。そういうことにしておきたい。
「嫉妬と言えば、君も実に酷いことするものだね。お友達を強姦なんて笑えないよ」
「顔が笑ってるぞ」
「どうしてあんなことしたんだい?可哀想じゃないか、まだ若いのにトラウマだよ」
櫻井が言うと悲惨さの欠片もない。
けれど、何故と聞かれると、答え難いことこの上ない。…彼が気に入らなかったから。彼に性的な興奮を覚えていたから。どちらも春弥の身勝手な理由だ。世間の性犯罪者の中には向こうが誘ったんだと答える人間もいるそうだが、春弥もその意見には一部共感するところがないわけではなかった。男同士で気を遣えという方が無理な話かもしれないが。まあ結局のところ。
「あいつがよがってるところが見たかったから」
「…もっとオブラートに包んだ言い回しをしてほしかったなあ…」
「俺だってあいつが…」
ふと、そう言いかけてから、幹靖を奇麗だと認識している自分に今更ながら気付いて、苛立ちを感じた。そして櫻井は春弥の心を読んだように笑う。
「怖いなあ。間違っても僕を襲ったりはしないでよ」
オルゴールの音が鳴り止む。すると急に物悲しい静けさを感じて、春弥は戻らなければという意識を強める。一方、櫻井はオルゴールが気に入ったのか、じっとそれを見つめている。退廃しつつある世界とは正反対の輝きを放つそれを。
「まあせいぜい気をつけることだね。この出鱈目な世界だからね、うっかり孕ませるってこともあるかもしれない」
「…随分と凶悪な世界だな」
春弥は気分が高潮するのを抑えながら、足音を殺して階段を下った。いくら何でもそんなことは有り得ないだろうと思ってはいたが、空想とはいつの世も楽しいものなのかもしれない。










その頃、和雄は幹靖と入れ替わりに雫の部屋にいた。
雫は和雄には興味のなさそうな顔で紅茶を啜っている。ただ、雫の場合通常の状態がそれなのだ。特別和雄を嫌がっているわけではない。しかし和雄がそのことを知る由もなく。
「どうだ、少しは考えたか」
「何を?」
「お前の行動の指針が緋田に依存していることについて」
この二人の会話の場合、他の二人とは異なり雫から会話を切り出すことが多い。和雄から聞くことがないので当然ではあるが、これはとても珍しいことであると言える。雫が積極的に会話を進行する役回りを担うことが得意ではないことは、誰に目にも明らかなことだからだ。コミュニケーションが苦手なわけではないだろうが、面倒なのであろう。彼は大抵投げやりな会話をする。真面目な会話は保たない。そして対する和雄も、雫とはあまりコミュニケーションを図りたくないと思っている。何故か?彼が和雄と幹靖の仲に批判的だからだ。和雄は自分に批判的な人間は嫌いだ。それが幼さ故とはいえ、自ら進んで批判を浴びる人間も決して多くはない。
「考えたよ」
「それで?」
「俺はみっちゃん以外どうだっていいし、行動の指針もみっちゃんで何もおかしくなんてないと思う」
半ば喧嘩腰で、しかしどこか縋るように和雄は言う。雫は顔色一つ変えず、それでいて一言、地を這うような声音で呟く。
「ガキが」
春弥や、現在ドアの向こうで待機している幹靖が聞こえていたならば今すぐにでも飛んできそうな発言だ。案の定、和雄はじろりと雫を睨みつけた。まさに一触即発の雰囲気である。おそらく和雄が殴り掛かれば、雫は容赦なく彼をその場に引きずり倒すだろう。整った容姿からは想像もつかぬほど、彼の暴力にかける比重は圧倒的なのである。説明をするくらいなら相手の頸を絞める方が早いと思っている節もある。
雫は紅茶に口をつけると、カップをゆっくりとベッドの横に置いた。
「全く視野の狭い奴だな。これから一生緋田と一緒にいるつもりか?」
「そうだよ、大学だって約束したんだから」
「それは無事戻れたらが前提の話だろう。それに、大学を出たらどうする。就職も一緒か?寝言は寝ているときに言え。それとも、お前の頭はずっと眠ったままなのか?」
喧嘩腰に和雄に対し、雫もまたとてつもなく喧嘩腰である。もはや言い負かされるのはパターン化しているのだから、和雄も突っ掛からなければいいのだが、自分の説を否定されたままでは収まりがつかない。和雄は自分の考えが間違っていないと堅く信じているのである。自分の考えを疑うことは、幹靖を疑うことに等しいからだ。そんなことがあっていいはずが無い。
「仕事が違ったとしても休日に会えばいいんだろ」
「…ならもう少しはっきり言ってやる。お前は永久的に緋田が自分を最優先してくれると思ってるわけか?」
「……他に恋人が出来たらとか、そういうことが言いたいのかよ?」
「まあ仮に恋人だとしてもだ、緋田にもお前以外に友人、親友が出来ないとは限らないだろう。それでもお前は自分が一番だと言い切れるのか?」
なんて嫌みな奴だろうと和雄は内心思う。だが此処で言い負けるのは彼自身を否定されたままとなる。
「一番長くみっちゃんといるのは俺だし。それも未来のことを考えたって、大事なのは今だろ」
「…過ごす時間が長ければ情もある、か?…第一、過ごしたとはいえ、たかだか中学高校程度だろう?その程度、この先の人生で容易に抜かされるさ」
「社会人と学生とじゃ年月の重さが違うんだよ!」
何故通じないのか。雫は和雄の言い分に呆れたような顔をしている。彼は人の情も分からぬ冷血漢なのかもしれない。だとしたら言っても無駄だ。和雄は立ち上がり、部屋から出ていこうとした。それを雫が呼び止める。
「待てよ」
「…なんだよ」
「お前の理屈も一部は認める。だがお前も、緋田と違う人生を歩むかもしれないことは分かっているわけだろう?」
「…」何が言いたい?
「俺が言いたいのは、いずれ自分で生きていくのなら、今のうちに緋田中心でない考え方の訓練をしておけということだ」
…かっと思考が白くなった。
彼の言うことが、正論だと認めたくなくて脳内が拒絶反応を起こしているのだ。和雄は奥歯を音がなるくらい噛み締め、勢い良く部屋を飛び出した。
認めたくない、認めたくない。理屈では分かっていても感情が受け入れたくないと言っている。彼と別の人生をだなんて考えたくもない!
「…和雄?」
幹靖の姿を見て、涙腺が緩みそうになる。畜生、どうしたって離れたくないのだ。
和雄は幹靖の腕を掴み、彼の背に顔を埋める。これから先のことなんてどうだっていい。彼が今此処に居るのにどうして彼を退けなければならないのだ。