第十一夜.頽廃









声を掛けられなかった。
幹靖は後ろを向いていたし、気付かなかったのかもしれない。けれど春弥はこちらを見て、明らかに目許だけで笑った。別にそれが嘲笑されたと決まったわけではない。しかしその瞬間、和雄は全身の神経を逆撫でされるような感覚を覚えた。
…二人はいったい何を話していたのだろう。
こうして嫉妬に似た後悔を感じるくらいなら、自分も話に加わっておけば良かった。しかし、もしも割り込んで嫌な顔をされたらどうしようかと思うと、和雄は一歩踏み出すことが出来なかった。幹靖に限ってそんなことはないだろうと思い込もうとする気持ちがある反面、何故幹靖は自分を放って春弥と話していたのだろう、彼は自分より春弥を選んだのでは、という疑念が生まれ始めていた。
そしてそれは考えるまでもなく恐ろしいことだった。
「…みっちゃん」
不安に取り憑かれてはいけない、と和雄は自分自身に言い聞かせた。彼が自分を見捨てるはずがない、彼はいつだって自分を最優先に考えてくれているはずだ。…なのに何故彼は春弥といたのだろう。お風呂に入るだけだから、すぐに戻って来ると言っていたはずなのに。自分が危険な目にあっていたらどうするつもりだったのだろう。間に合うように駆けつけて、助けてくれただろうか。…そうだ、きっと彼は春弥に引き止められて仕方がなく今後のことでも話し合っていたのだろう。いざというときは携帯もあるのだからと。そうなのだ。そうに違いない。…春弥は彼のことが苦手なくせに、何故雫ではなく幹靖と話そうとするのだろう。どうせなら気心の知れた幼馴染みの方がいいだろうに、おかしな話だ。けれど、あの幼馴染みでは無理もないことかもしれない。和雄は膝を抱えながら、辻褄の合う無難な結論を下した。
外部からのノック音。
「…和雄、…」
幹靖の声であった。和雄は飛び上がって、夫の帰りを待ちわびていた妻のようにドアへと駆け寄り彼を迎え入れた。いい加減一人でいるのも苦しくなっていたのだ。彼は自分を裏切らない。現にこうして戻って来てくれたではないか。
彼は風呂上がりだからだろう、ジャージ姿で非常に楽そうな格好をしていた。…しかし彼は先程春弥と話していたとき、制服のワイシャツを着てはいなかっただろうか。風呂に入る前に掴まったのか。
「和雄」
「…みっちゃん?」
彼は不意に和雄の頭を抱き寄せた。…随分長いこと引きこもっていたから、心配させてしまったのだろうか。…それとも、春弥に何か言われたか。
「どうしたんだよ?みっちゃん」
「…ごめん、…ちょっと和雄の小ささが恋しくなって」
「なんだよそれ…」
軽口を叩く余裕があるのなら、それほど気にする必要もないのかもしれないけれど。
つい、と彼の表情を窺おうとして、痛々しい痣の消えぬ頸が目に映る。痣は通常どのくらいの時間が経ったら消えるものだったろう。彼の痣が薄れる気配は未だない。もはや永久に消えないのではないかとさえ思ってしまう。…世界がずっと闇夜に包まれている所為で、時間の感覚が麻痺しているのだろうか。時計に合わせて生活してはいるけれども、やはり太陽の光に当たらない生活は身体の機能を狂わせる。今も、何時だったか?そうだ、もう夜の十時だ。窓の外を降りしきる雨がべちゃべちゃと途切れずに、地面と混じり合う音がする。腐敗の気配。
「なあみっちゃん…」
「ん?」
「みっちゃんはこの世界からやっぱり出たいと思ってるのか?」
「…当たり前だろ?」
ゆっくりと身体を離されて、幹靖の顔を見上げる。彼は微笑んでいる。いつもと変わらない。
「アレは勿論そうだけど、食料のこともあるし…それに親父やおふくろも置いて来てるわけだし」
「…俺はみっちゃんさえいれば何処だって良いよ」
「和雄…」
事実、この世界には得体の知れない化け物がいて、いつ何時取って喰われるか分かったものではない。しかし。
「此処に居れば嫌な奴だっていない。それに何十年後のことなんか、分かりっこない。変な世界なんだから」
…春弥達のことは妥協の範囲だと思えば問題にはならない。違うのだろうか。幹靖の瞳に映る自分は不安そうな顔をしている。
やけに長く感じられた沈黙。
幹靖は破顔して、くしゃくしゃと和雄の髪を撫で回した。
「だーめ。俺には和雄と大学に行くって野望があるんだから」
「…俺馬鹿だから無理だって言ったじゃん…」
…以前、まだ世界が奇天烈になる前に和雄は幹靖と進路について話したことがあった。和雄は成績が良くないので就職かなと零し、彼に叱咤されたのだった。ただし彼の勝手な言い分で。
『そんなんじゃ駄目だ!俺は和雄と一緒に大学行くって決めてたんだからな』
『……』
そのときは勢いに押されて頷いた。今となっては懐かしい想い出だ。遠い昔のような気さえしてくる。
何故自分は今こんな世界にいるのだろう。家族は今頃何をしているのだろう。元気にしているのだろうか。此処にいる四人の扱いはどうなっているのだろう。実は事故にあったとかで全員意識不明の状態だったりすればいいのに、と感じる。もしも忘れ去られていたらと思うとやり切れない。一方的な忘却。切り捨て。
「みっちゃん」
「どうした?」
「俺、みっちゃんのこと好きだよ」
「…何を今更」
そう。それは今更過ぎるほどに。








春弥は何故眼の見えていなかったはずの雫の方が、自分よりも料理が上手いのか理解出来ない。
おそらく自分よりも利用する料理のレシピ自体の難易度が低いのだと言い聞かせる。目の前には具材に富んだサンドウィッチとボリューム満点なサラダ。カットされた野菜の切り口は恐ろしいほど鮮やかだ。ミス一つない。世の中おかしい。…確かにおかしい。ちなみに使われた新鮮野菜は近所のビニールハウスの収穫時期のものを拝借してきたらしい。
春弥は食事の前にトイレに行こうと部屋を出ようとして、和雄を鉢合わせした。適当に声掛けして、続けざまに廊下を歩いて来た幹靖と顔を会わせる。
「お、はよう、鷲宮」
明らかに動揺している。何せ昨日の今日だ。これで普通の顔をしていたら相当面の皮が厚い。春弥は敢えて言ってやった。
「腰は痛くないのか?」
「………!」
まあそれほど執拗に突いてはいないか。幹靖の顔が真っ赤に染まったのを見て、春弥は満足げにトイレへと向かった。なんて愉快なのだろう。











傘に穴が空いている。
聞けば、今朝方野菜を取りに行ったとき赤い雨に打たれたのだと言う。水たまりを見下ろせば、その色は赤く透き通っている。触れれば皮膚も焼け爛れるのだろうか。雫にそんなことを聞けば「腕を晒してみれば分かる」と言われてしまうのがオチである。
「…なんだか、本格的に退廃してきたな」
昨夜から今朝まで降り続いた雨の影響か、建物の至る所が溶け出している。壁の色も赤茶けて、饐えた匂いがしてきそうだ。靴の裏もざらついている。
「…今日は何処に行くつもりなんだ?」
「近隣の食料品店」
「…」
それなら自動車にでも乗って来た方が早かったんじゃないのか、と言いかけて、そうなれば一体誰が運転するのかという問題が生じることに気がついた。ましてや、不吉な雨に溶かされた地面では自動車の重みに耐えられるかどうか。
…そもそもこの世界では彼の言う通り、食料の補給は重要である。数年は加工食品等で凌げるだろうが、その先が。自家栽培という手もないわけではないが、不気味な酸性雨擬きの下ではどの程度の成長が見込めるのかどうかすら危うい。…動物もこの世界にはいないようだ…虫以外。だが何故虫がいて、他の動物がいないのだろう。生態系のバランスに問題はないのか。あってもこの世界では無効なのか。そう虫が…。
「………」
虫が赤い水たまりに浮かんでいる。死んでいるのか。よくよく目を凝らしてみれば、水たまりの水面には何頭もの死骸が風に煽られ、ぷかぷかと揺れている。大小問わず、それらは一様に優雅な泳ぎを見せては沈んではまた浮かんで。内蔵まで汚水の染み渡ったそれらは、気泡を吐き出すこともなく己の重みに従うがままに奥底へと沈殿するか、沈むことも出来ずに水面に彷徨い続けている。赤い赤い液体。それらは次第に溶けて塵と化す。とろけてとろけて跡形もなく消え去る。模型のようなそれらの躯は、儚く容易に砕けては生命を漏らし出す。くしゃりと潰す感覚は容易い。
そう、全力を出さずとも、手のひらでそっと包み込むだけで押し潰れるか弱い生命。あまりに簡単に死んでしまうものだから命の重さなんてあってないようなものだ。失くなったところで嘆き悲しむこともない。同じ生命。不平等な生命。ならば美しく悦びに塗れた死で送り出してしまう方がどれだけ慈悲深いか。感傷の欠片もない死は、死という重みさえ持たない。
そう、死とは重く恐れるものであるはずなのに、それらにとって死は唐突で感じる暇さえない。それらに感じることを認識する知能はない。感じなければ軽いのか、考えれば考えるほど死とは重くなるものなのか。春弥は死の気配に恐れおののきながら、虫の死骸を踏みつぶした。ぐちゅぷと詰まった中身。生きていたものが死んだ瞬間。何が変わった?軽い死は違いに気付けぬほど鈍く意識の隅に追いやられる。
滲み出た赤が赤い。赤い赤い赤い赤い赤い。
「…鷲宮?」
世界が、赤い。
水たまりも壁も空も自分も全て真っ赤だ。
まるで躯の内側のような生々しい赤色。雫には見えているのだろうかこの世界がこの悦楽が。
彼の顔がぶれる。幼い泣き顔が重なる。手のひらいっぱいに虫の死骸を掻き集めて指先が焼けて痛みを訴えるのも気にしないで彼の腕を引いて。
彼の力は強い。けれども捩じ伏せてその手のひらいっぱいに虫の死骸を押し付けて彼の呼吸が引き攣っても黙らせて押し付けて黙らせて。
だって奇麗だ。彼の顔も千切れた死骸も。奇麗なものに奇麗なものを押し付けて何が悪い。もっと泣けばいいのに。過去のように泣けばいいのに。
「雫」
嗚呼、悲しまれぬ死体。
彼は嫌がる。潰すことは愛なのに。美しいものに愛を注いで何が悪いのだろう。ぞんざいに扱われるよりもずっと幸せなはずだろうに。一瞬でも誰かに気にかけてもらえる。誰かに愛してもらえるのに。赤に塗れたそれらを雫の頬になすり付ける。大変だ興奮して仕方がない。一種の芸術だこれは。
「しゅ、んや…」
彼は辛そうに顔を顰める。苛立たしげに苦しげに。真っ赤な世界が飛び跳ねる。彼に引きずり倒される。べっちゃりと背中に張り付く色彩。彼の息は荒い。今にも倒れてしまいそうなくらいに。彼の手が伸びる。息が苦しくなる。頸に絡み付いた彼の指が痛い。何故か彼が苦しい顔をする。
「春弥…!」
彼の指が緩む。ぐにゃりとその身体が倒れ込んで来て、別の腕がそれを支えた。…見知らぬ男。

「あまり感情を乱しては駄目だよ。…彼は”月”だから」


「つ、き…?」
いきなり現れたかと思いきや何を言い出すのだろう。真っ赤な世界に現れた突然の異物。…そう、明らかな異物だった。
春弥は戸惑い彼を見つめる。
「…お前が…神、なのか?」
「別に僕はそんな大それたものになった覚えはないけどね」
諌める口調から一転して皮肉げな声色。…これは否定されたということなのか。しかしでなければ何故月、などとわけの分からぬことを宣う。櫻井と同類なのか?
彼は雫を春弥に受け渡すと、すっと身を引いた。
「あまり此処に長居しない方が良い。彼の身体に毒だ」
ひらひらと手を振り、歩き去っていく。そして彼の姿が完全に消え去った瞬間、視界から赤がすうっと引いて正常な色彩に戻った。腕の中の雫は動かない。
「お…い、岩崎!」
魔が差したとしか思えない。自分はいったい何をしていたのだろうと春弥は空いている手で頭を掻きむしった。先程までの春弥は完全に我を見失っていた。
「…」
…ひとまず今は、連絡を入れて戻るしかない。春弥は携帯電話のボタンを押して、幹靖に連絡を取ることにした。呼び出し音。
『…どうかしたのか?』
「岩崎が倒れた。今から戻る」
『え』
ぶつりと電源を切る。意識のない人間というのはなんて重いのだろう。春弥は雫の身体を引きずりながら、歩いて来た道を戻り始めた。
……あの男はいったい何者だったのだろう。月、というのも何かの暗喩なのだろうか。


どうにか家まで辿り着き、雫をベッドまで運ぶ。呼吸はあるし脈拍も問題ない。なら何故…、…あの赤い世界が雫には毒だと、あの男は言っていた。
…どうしてこういうときに限って櫻井はいないのだろう。
「…!目が覚めたのか」
ふと雫がもぞりと動いて、春弥は声を張った。彼の制服には赤いものがべっちゃりとついている。…着替えを持って来なければ。立ち上がりかけて、雫に裾を掴まれた。
「着替えが欲しい」
「…あ、ああ」
「…緋田に持って来させろ」
どうして自分では駄目なのだ。春弥はそう言いかけたが、冷たい言葉を投げかけられるのは目に見えている。黙って部屋を出た。和雄でなく幹靖を指名したのは分かる。だが…。…先程までの自分の行動を振り返り、春弥は瞑目した。文句を言える立場にはない。
隣の部屋のドアを開けて、静かに入る。二人分の視線が春弥に突き刺さった。
「…奇妙な男に会った。神かもしれない」
「…本人が神だって名乗ったのか?」
…緊急事態ということ、また和雄の前ということもあって、幹靖は平静な態度を努めているようだ。本当は目も合わせたくないだろうに。頸の痣は相変わらず消えていない。…制服の袖から覗く手首の痣も。昨夜は随分ときつく縛ったのだから無理もない。
「いいや。ただ…意味の分からないことを宣ってた。雫は月だとか」
「月?」
神に引き続き月かとでも言いたげだ。春弥とてそう言いたいところである。そして…和雄の沈んだような目に居心地が悪くなる。なんだ?昨日のことがばれたのだろうか…しかし幹靖が自らそんなことを打ち明けるとは思えない。和雄のことだ。なんとなく除け者にされて気に入らない気分にでもなっているのだろう。昨夜もそんな目をしていた。
「…岩崎にはアレが近付かないそうだけど、それと関係があるんじゃないのか?」
「もしかしたらそうかもしれない。何にせよ、今は情報が足りなさ過ぎる…幹靖、」
「…?」
多少警戒の混じった訝しげな眼。別に和雄の居る前でどうこうしようとする気はないのだから安心してもらいたいところだが。妙に普通を装われても、この場で引き倒したくなるのだから困りものだ。
春弥は一言「岩崎が呼んでる」とだけ言った。