第九夜.衝突







何処から持って来たものやら、壁に張り付けられた視力検査表。
雫はベッドの上に座ったまま、片目を塞いでいる。…己の視力がどの程度か気になるのか。
「和雄に怪我はなかった」
「そうか」
「それで明日あたり合流したらどうかと思うんだけど、岩崎の家で良いかな」
「ああ」
…沈黙。雫から春弥に話題を提供する気は毛頭ないらしい。しかし春弥には気にかかることがいくつかある。
「…和雄は地割れに巻き込まれたんだ。怪我一つないのはおかしいと思わないか」
「どこぞの神の力が働いたんじゃないのか」
…雫の口調はいつになく投げやりだ。機嫌が悪いのだろうか。それともまだ本調子でないのか。
「…それは俺も思ったけども…」
「鷲宮」
「?」
「お前俺に隠していることはないか」
…唐突に何を言い出すのだろう。彼は検査表を見つめたまま、こちらを見向きもしない。…彼は何故春弥が隠し事をしていると思ったのか。一日家に居て、疑心暗鬼にでも取り付かれたのだろうか…と思いかけ、春弥は視線を膝元に下ろした。…もしや、櫻井のことがバレたのだろうか。雫には見えぬからと話したことはなかったはずだが。
この会話の流れで雫がこう切り出してきたということは、彼は櫻井が神だと勘繰っているのだろうか?そうだとしたら、春弥自身違うとは断言出来ない。何せ櫻井という男は非常に快活で胡散臭く、また能力も人間離れしている。むしろ透けている時点で人間ではないわけで、記憶によれば人間様の足下に生えている雑草である。
…雫に彼のことを打ち明けるべきか。
「ええと」
別段隠す理由もない。けれど何だろうかこの異様な言い難さは。雫の春弥に対する威圧感の成せる技か。否、実際は春弥が勝手に雫に負い目を感じているだけで、雫は至って普通のつもりなのかもしれない。そう、彼は目の話題さえ持ち出さなければ突如逆上することはない、はずだ。ただ、逆上までいかなくとも彼が春弥のことを今すぐ足蹴にしたいほど憎たらしく思っているのは紛れもない事実であろう。
言い出しかねる。言った方が良いとは分かっているのだけれど。
雫は片目を押さえていた手を外し、春弥を冷たく見下ろした。嫌な予感しかしない。そして予感した通り、彼の手が春弥の襟首を引きずり、掴み上げた。どうやら『機嫌が悪いのだろうか』どころではなかったようだ。最高潮に気分を害しているらしい。何故だ。
「岩、崎…」
息が苦しい。今回春弥に非はなかったはずだ。存在自体が非だと言われればそれまでだが。
「春弥」
もはや眼の色が違う。何が原因か。櫻井のことを素直に言わなかったことか。しかしその程度のことで彼が怒りに身を任せるとは思えない。そこで春弥は火に油を注ぐ覚悟で彼の手を振りほどこうとした。さすがにわけが分からぬまま暴力を受諾する筋合いはない。が。
雫のとった行動は春弥の予想の斜め上をいっていた。
「………っ」
噛みつくような口付け。唇に鮮烈な痛みが走って、大きく眼を見開く。その視線が交わった瞬間、春弥は自分の身体が熱くなるのを感じた。目前に揺れた美しさに相手を捩じ伏せたくなるような衝動に駆られるも、理性でぐっと押さえ込む。…雫相手に、それだけはしてはいけない。
荒い息を飲み込み、雫の反応を窺う。彼はこちらが拍子抜けしてしまうほどあっさりと離れ、再びベッドに潜り込んだ。まさか寝惚けていたわけでもあるまいに。
「…岩崎?」
「夜まで寝る」
説明は皆無か。春弥はぐっと寄せた眉を指で押し解しながら、座布団に腰掛けた。駄目だ。全く穏やかでない。









静まり返った家の中に、インターフォンが鳴り響く。
ベッドで雑誌を開いたまま微動だにしない雫の代わりに春弥はいそいそと階段を下り、玄関まで幹靖と和雄を出迎えに行った。
「よぉ鷲宮くん、昨日振り」
「上がれよ」
「お邪魔しまーす」
…二人を引き連れながら二階への階段を上る。玄関のドアを開けた瞬間、春弥は和雄の異変に気がついた。表情が硬い。先日この家で起きた出来事を思い出したのか、それとも、幹靖との間に何かあったのか。しかしその割に幹靖の表情に影はない。
「和雄」
「なんだよ?鷲宮」
「…いや」
声に覇気がないわけでもない。ちら、と振り向いて幹靖との遣り取りを眺めれば、ちゃんと笑っているし、会話も成立している。なら何がおかしいのかと問われれば、彼らの茶番がいつも以上に茶番じみているということだった。和雄が無理をしているような、気のせいだろうか。昨日会ったばかりだというのに、言い知れぬ不安感に駆られる。幹靖は気付いているのだろうか。
春弥は二人を雫の部屋に招き入れると、後ろ手で扉を閉めた。そういえば。
「幹靖、お前もう大丈夫なのか?」
「ああうん。和雄が持って来てくれた解熱剤のおかげで熱は引いたからさ」
だが病み上がりなことには変わりない。多少の気遣いは必要か…と思いつつ、春弥も他の二人のように座布団やらカーペットの上に腰掛けた。雫だけはまだベッドの上で、彼は足を組んでこちらに向き直った。瞳は冷静そのもので、昨日突然人の唇に噛みついた男とは思えない。本当に昨日の彼は何だったのだろう。おかげで下唇が痛い。そして痛みを感じるたびに、幼い頃から感じてきた凶暴な感情がむくりと頭を擡げかける。
醜いものはもとより醜い。整ったものこそ、甚振り甲斐がある。想像だけでも飛び散る快楽に冷静さを失いそうになる。理性が窘める。
雫が口を開いた。
「家にあるものは好きに使え。寝るときはこの部屋に集合すれば良いし、それ以外はこれまで通り二人一組で動いてくれてかまわない」
…二人一組はアレ対策だろうが、この間の口振りからして彼だけは例外なのかもしれない。何故なのかは分からない。しかし春弥もまた、櫻井が傍にいるときのみは例外であるといえるかもしれない。櫻井は信用していいのかは定かではないが、センサーにはなる。つまり安全さえ確認出来れば、二人一組でいる必要はないということらしい。ルールには柔軟さも大切なのだ。
それから雫がある一人に視線を向けた。
「…秋草」
「!」
和雄が驚いて肩をびくつかせる。雫に最も話し掛けられそうにないのだからこの反応も当然だろう。初対面のときのことを思い出したのか、幹靖はどことなく不安そうな顔をして二人の遣り取りを見守っている。いきなり気絶させたりはしないだろうが、危うさを覚える点では春弥も同感だった。
「二人一組とは言ったがお前のペアが必ずしも緋田になるとは限らない。場合によっては俺や鷲宮ともちゃんと協力してもらう」
「……」
「それと万が一…秋草・緋田・鷲宮の三人で行動し、珍妙な事態に巻き込まれたとして。鷲宮だけ見殺しにするような真似をしてもらっちゃ困る。いくら気に喰わなくともだ。俺も気に喰わないがな」
…途中まではまともなことを言っていたような気がしたのだが。最後の方少しばかりおかしくはなかっただろうか。聞き間違いか。
和雄を見れば、彼は俯いていて、雫の言うことを聞いているのかいないのか判断出来ない。雫は今度は幹靖の方を見ながら、
「緋田も分かってるだろうな?」
「それは勿論…」
「はっきり言わせてもらえば緋田に関してはそれほど心配していない。が、秋草は緋田を行動の理由にするのは止せ。依存するのは勝手だが、他に無関心過ぎるのはマイナスにしか成り得ない」
…正論だが言い過ぎではないのか。和雄自身も自分が幹靖に頼り切っているのは分かっているだろう。自分自身で分かっていることを改めて第三者に指摘されるほど不愉快なことはない。幹靖もそう思ったらしく彼は和雄の肩に触れ、視線を同じ高さに合わせると、「和雄」と動揺したであろう彼を宥めようとした。しかしその場にいた全員の予想に反して、和雄の反応は静かなものだった。不気味なほどに。
「…分かってるよ」
「和雄?」
てっきり和雄は泣いて取り乱すか、雫に飛び掛かるかするかと思ったのだが。
雫は雫で和雄から興味をなくしたように視線を反らし、「分かってるならそれでいい」と更に突き放す始末。あまりの雰囲気の悪さに端役としては言う言葉もない。現在同じく端役である幹靖もそれは同じようで…というよりも先程から頻繁に心情がシンクロしているわけだが、この状況下では似たような反応をせざるを得ないのかもしれない…、彼は和雄の肩を抱きかかえたまま、意見を求めるように春弥を流し見た。春弥とてそんな眼で見られても困る。…空気を和まそうと茶化したりしたところで雫相手では無意味と化す可能性が大きいし、無難に一時解散した方が良いのではないか。
「…岩崎、ひとまず隣の部屋を借りるよ。また後で。…和雄」
幹靖は俯いたままの和雄を連れて、一旦部屋を出て行った。部屋が静けさを取り戻し、春弥は半ば呆然としたまま雫を見た。
…何故雫はあんなことを言ったのだろう?
彼には彼の考えがあるのだということは分かっている。だがあまりにも自分たちは隔たれ過ぎていて、彼が心の奥底で何を思っているのかは分からない。
否、彼の心だけではない。春弥は如何にすればこの世界から抜け出せるのか分からずにいた。あやふやな世界。抜け出す術があるのかどうかも。手掛かりは神の存在のみ。完全なる停滞状態。
憂いを帯びた彼の眼差し。











泥沼に浸っているかのような錯覚を覚える。
体内の血液の循環も滞り、下半身がどぷりと重い。脳裏に過るのは彼の顔。端正で叩き潰したくなる彼の顔。
冷たい面立ち、冷たい声色、冷たい言葉。きっと彼の身体の中には冷たい血液が巡り巡っているのだろう、と思いながら和雄は隣に座る幹靖の肩に寄りかかった。温かい眼差し、温かい身体、温かい微笑み。全てが彼とは正反対だ。幹靖はどんなときでも自分のことを第一に考えてくれる。自分が苛められていても一人だけ除け者にされていても、必ずその他大勢に背を向けて自分のところへ来てくれる。


痛む内蔵。
破れた教科書。
尿をかけられ異臭を放つ体操着。
素知らぬ振りをする学友達。
嘲笑から逃れて身を縮こませた先で。

”―――――秋草くん、だっけ?こんなところで何してるの?”

朽ちて廃れた日常に現れた、彼を太陽だと思った。


…それを銀色に輝く彼は依存だと宣った。知っているそんなこと知っている。分かっている。
だが誰かに依存して何が悪いのだ。幹靖は依存するに値する存在なのだ。他の誰もがそう思わなくとも和雄だけは知っている。他人は理解する必要もない。これは和雄と幹靖だけに関係していることであって、他人である彼らには関わりのないことなのである。それを彼はいけないことだと言う。他人にも関心を持てという。だがそんなことをして何の意味があるのだろう?他人は所詮他人で。この世界を抜け出すためには協力が不可欠?その術さえも分からないのに。
第一、彼とてもしも世界に二人しか生き残れないとしたら、三人の中から春弥を選ぶだろう。彼にとって春弥は特別だから。でなければ見殺しにされて困るだななどと言うわけがないではないか!自分だって特別がいるくせに彼は何故和雄を非難する権利があると思うのだろう。人は特定の誰かを特別だと認識した時点で多かれ少なかれ心を相手に移すものだ。相手がいなくなればその明け渡した心は行き場をなくして彷徨う。それが依存とどこが違うというのだろう。
「和雄?」
幹靖の声を背に部屋を出る。手すりのついた廊下、階段を早足で下り台所に居た春弥に声を掛けた。
「鷲宮」
「…あ、どうかしたのか?」
晩ご飯ならまだだけど、と彼はエプロンで手を拭いながらこちらを振り返る。窓の外は夜。この場面だけ切り取れば、平和な日常の出来上がりだ。
「岩崎は?」
「岩崎なら部屋にいるけど」
「二人一組が基本じゃなかったっけ?」
春弥は顔を曇らせる。
「…あいつはアレに好かれる体質じゃないみたいだから」
アレというのはあの醜悪な化け物のことだ。思い出すだけでも腹立たしいことこの上ない。
「でも鷲宮は違うんだろ?」
「そう…なんだけどな」
どうにも歯切れが悪い。和雄は「鷲宮は岩崎に頭が上がらないわけだ…」と聞こえぬ程度の声で呟いた。…弱みでも握られているのだろうか。
「とにかく、岩崎は部屋にいるんだよな?」
「…和雄、ちょっと待てよ」
春弥の呼びかけを無視し、踵を返すと幹靖に止められた。
「和雄、待ってくれ」
「…みっちゃん…」
…彼を困らせたくはない。だが、彼との関係について他人から指図されるのだけは我慢がならない。
和雄は彼を横をすり抜けると、雫の部屋へと猛進した。ノックもせずに扉を開けて、彼と対峙する。舞い散る雪の如き美しき容貌に動揺は見られない。
「ノックもなしとは随分不躾な奴だな」
「鷲宮と岩崎の関係は依存じゃないのか」
「…鷲宮?」
雫は悠然と微笑した。まるで和雄の言動が全く的を得ていないとでも言うかのように。
「お前は俺があんな奴に依存してると言いたいのか?」
「鷲宮がお前にとって他の奴とは違うのは確かだろ」
「それはそうだろう。アレほど下衆な人間はそうそういない」
彼の場合、過去の恨みつらみがあればこその言い回しである。勿論和雄が知るわけはなく。
「ああそう、いやよいやよも好きのうちってやつかよ。鷲宮鈍そうだから気付かないんじゃないのか」
「お前の方こそ熱烈にアピールし過ぎて、いい加減内心では飽きられてるんじゃないか?一人で勝手に思い込んで哀れな奴だな」
「…っそんなこと…!」
「岩崎!駄目だ!」
声とともに春弥が和雄と雫の間に割って入った。
すると雫はつい、とそっぽを向いてベッドの定位置へと戻って行った。追い打ちすらかける価値もないと言わんばかりに。握りしめた拳がみしりと音をたてる。
「和雄…」
心配げな声色。和雄は幹靖にしがみつくと、その胸に頭を押し付けた。
彼さえいれば他には何もいらない。世界がどうなろうと知ったことではない。だけれど。
「鷲宮」
「幹靖、和雄を頼む」
「ああ」

”――――鷲宮くんって良い奴だよなあ。”


彼の気持ちが離れていきそうで怖い。