第八夜.茶番









どしゃ降りの雨が強かに打ち付ける。
傘を差せば鈍く跳ね返り、伝いに伝って多量の水滴を零れさせる。和雄のためを思って持って来た二本目の傘も、すっかり水浸しになってしまっている。心無し冷え出した空気に、春弥は温い息を混じらせた。彼はまだ薬局にいるのだろうか。行き違いになってはいないだろうか。そうなったなら連絡の一つはくれるだろうと、淡い期待を抱きながら自転車のペダルを漕ぎ進める。ズボンの裾が染みて黒く変色する。
雨の日ほど自分のくせ毛をうっとおしく思うことはない。春弥は息で曇る眼鏡を煩わしく感じながら、遠目にイシヅカ薬局の看板を発見した。もう少しで着きそうだ。だが雨の中の道のりは実際の時間よりもずっと長く感じる。
漕ぐ。イシヅカ薬局の駐車場と入り口が見えた。その入り口から出て来る和雄の姿を目にして春弥は大きく片手を振った。気付かれないと悲しい。けれど幸い和雄は春弥に気付いたようで、その位置で立ち止まった。雨が降っているため春弥が来るのを待っているのだろう。春弥は自転車を押し進めながら和雄の元へと向かった。幹靖の心配が杞憂に終わっていくらかほっとしていた。
雨が声を遮る。ようやく互いの声が聞き取れる距離になって、春弥は「和雄」と呼びかけた。
和雄は驚いた顔をしていたが「幹靖が心配して」と口を濁すと合点がいったのか複雑そうな顔をした。今頃幹靖が一人でいることを気に病んでいるのだろう。とはいえ春弥の身体は一つしかないのだから、二人のところに同時にいられるはずがない。無茶な注文だ。
和雄の手にはビニール袋がある。解熱剤を失敬したのち自分で包んだのだろう。他には何も取っていないようで、とても小振りだ。緊急用にもう少し持って行けばいいものを、和雄の頭には幹靖のことしかないらしい。せめて冷えピタくらいは持って行ったらどうなのだ。…売っていたらの話だが。
しかしいつまでもこうして二人して突っ立ってわけにもいくまい。春弥は透明なビニール傘を和雄に手渡そうとした。けれどそれは叶わなかった。何故なら突然和雄の姿が消えたからだ。
「え?」
ひび割れる音。ぴしぴしぴしと見事な割れ目が入り、和雄の小柄な身体は瓦礫の中へと飲み込まれた。
「和雄!」
咄嗟に手を伸ばして届くような柔な状況ではない。悲鳴すら聞こえぬほど奥深くまで和雄の身体は沈み込んで行った。
「和雄!」
馬鹿みたいに彼の名前を叫ぶ。彼は生きているのか。死んだのか。春弥は地底を覗き込む。暗くて何も見えない。傘だけが地上に残され、ひっそりと花開いている。春弥は己の背中に打ち付ける雨の強さを感じながら、もう一度「和雄!」と大きな声で叫んだ。ぽっかりと空いた穴の中で春弥の声だけが反響する。
…彼は死んだのか?











ワイシャツのボタンを外す。
心臓の位置だろうか、黒ずんだ影が、










瓦礫の破片が穴へ吸い込まれていく。
春弥は呆然とその穴を見下ろしたまま、雨風に吹き付けられ肩を踏ん張らせた。
どうする。このまま帰ることは出来ない。けれど…穴は途方もなく深い。常識的に考えれば和雄は死んでいる。しかしこの世界に常識を求めるのも馬鹿らしいことではある。曖昧な境界線。
「櫻井!いないのか」
笑顔の異人。周囲には誰もいないように思われたが、彼は気配もなく春弥の隣に姿を現した。容赦なく突き刺す雨水の針も彼の身体だけは通り抜ける。
「あのさ、言っておくけど、僕はいつでも君の傍にいるわけじゃないんだよ」
「和雄は生きてるのか?!」
「見事な地割れだからねえ、どうかなあ」
「知ってるんだろ、真面目に答えろよ」
櫻井は緊張感のない笑みを浮かべつつ、「またそんな人を全能みたいに…」と零した。それから。
「ならなに、僕が死んでるって言ったらどうするんだい。このまま帰る?」
「!」
「骨も拾わずに。第一、それが嘘だったら?本当は生きてるのに誰も助けに来てくれない。このことを知っているはずの君も」
「…」
「彼は君を恨みながら死んでいくんだろうね。可哀想だなあ。あはは!」
櫻井は心底愉快そうに笑っている。最低な男である。しかしその最低な彼に頼り始めているのは紛れもなく春弥自身であり、この生き難い世界で春弥は彼の言葉を判断基準の目安としたこともあった。いつのまにか彼が嘘をつくはずがないと思い込んで。生まれたばかりの雛は初めに見たものを親だと思い何処へ行くにもついていくそうだが、櫻井は春弥がこの世界で初めて見た自分たち以外の人間だったということなのかもしれない。
そもそも春弥には、櫻井の性格が掴み切れていない。だがなんとなく、そうなんとなく。彼は悪意のない人間…だと思った。実際に今も彼は意地の悪い笑みではなく純粋な微笑みを浮かべている。…言葉の内容と表情は全く合っていない。いつものことだが。
「…櫻井」
「うん…どっちにしろちゃんと確認しない限り君も不安だろうから、ロープで降りて見て来たら良……」
「櫻井?」
不意に、彼は話すことをやめた。能天気な微笑みを打ち消し、困惑したかのように眉を顰める。らしくない。
「……か」
「え?」
彼は春弥を振り返り、微笑した。
「どうやら和雄君とやらはまだ生きてるみたいだ…薬局の裏手にいるみたいだから迎えに行ってあげると良いよ」
「え?あ、分かった」
けれど何故崩壊に巻き込まれたはずの和雄が薬局の裏手にいるのか。逃げ出す暇はなかったはずだ。春弥は自転車はそのままに半分以上崩れている薬局の裏手へと駆けた。地べたに溜まった水が跳ねる。気がつけば櫻井がいない。消えるならちゃんと説明してから消えてほしいものだ。
「和雄!」
制服をボロ雑巾のように纏わせた和雄が倒れている。…やはり巻き込まれて…しかし何故此処に。
「おい、和雄。生きてるのか?」
胸に耳を当て、心臓の音を確認する。顔を見遣れば彼が薄らと目を開けた。意識が戻ったらしい。
「和雄、大丈夫か?怪我は…」
「ない、みたい…何処も痛くないから」
「そう…なのか?なら、良いんだけども…」
有り得ない。地割れに飲み込まれて無傷な人間など聞いたこともない。まさか和雄が神なのだろうか。もしそうであれば怪我がなくともそれほど不思議ではないが…。…、…神の存在自体が解せないのだから、何が不思議で普通なのかも分からなくなってきた。
ひとまず春弥は和雄を背負うと、自転車のもとまで戻った。和雄にしがみつく体力があれば二人乗りをすれば良いし、なければ春弥が自転車を転がしつつ和雄を背負うという形になる。
和雄は言う。
「…大丈夫だ鷲宮。本当に何処も悪くないから」
「…なるべくゆっくり運転することにする」
「平気だって。それにみっちゃんが待ってる」
春弥も和雄も帰って来ないと、今頃幹靖はさぞかしひやひやしていることだろう。それに彼が無事という保障もないから、あまりのんびりしてもいられない。やはり合流しておくべきだったと内心溜め息をつきながら、春弥は自転車のペダルを漕いだ。二人乗りで傘差し運転など高度な真似が出来るわけもなく、春弥も和雄もびしょ濡れである。
「ちゃんと解熱剤持ってるのか?中身落としてないか?」
「大丈夫」
何故無事だったのか聞かなければと逸る気持ちもある。だがこの状況で聞き出しても和雄と幹靖の感動の再会で話が打ち切られる恐れがある。駄目だ。彼らの間柄は微笑ましいが同時にうっとおしくもある。というよりも大体うっとおしい。春弥は和雄の家の前で自転車を止めた。
和雄は一目散に家の中へと駆け込んで行く。春弥も茶番を見学するつもりで上がり込む。
「和雄!」
「みっちゃん!」
そんなびしょ濡れの格好で病人に抱きつくのもどうなのだろう。ここは端役として彼らの着替えを準備しておいた方がいいのだろうか。しかし和雄はともかく、幹靖の分の着替えは何処にあるのか。いつも制服でいるわけではあるまいに、まさか父親の服でも貸しているのだろうか。春弥は雫と似たようなサイズであるし自宅も正面であるから取りに行っても借りてもいいわけで、明らかに身長差のある幹靖と和雄でそれは無理というものだろう。
「心配したんだからな」
「ごめん、でも…」
なんという茶番。否、再会を喜び合うのは全くかまわないのだが、彼らの場合はリアクションが大袈裟過ぎるのである。見ていて胸焼けしそうになる。そして会話の流れで漸く出掛けた目的を思い出したのか、和雄は水持って来ると階段を駆け下りて行った。幹靖が春弥の方を振り向く。
…シャツが濡れて素肌が透けて見える。
「鷲宮」
「あ、ああ」声が上擦る。
「…有難うな。和雄を無事に連れて帰ってきてくれて」
…もしも春弥が幹靖の立場であったら、素直に礼も言えやしなかったろう。
けれども幹靖は奇麗に微笑み、春弥を真っ直ぐ視線に捉えた。羞恥と後ろめたい何かに、全身の血液が沸騰しそうになる。視線を無理矢理押し下げ、膝の上の拳をぎゅうっと握りしめる。下からは水道の水が流れ出す音が聞こえる。
「…俺さ、妹がいたんだよ。死んじゃったけど」
「…」
「だからなんて言うのか…小さいからかな、和雄見てると放っておけなくて。同い年なのに変だけどな」
…なんと答えたら良いのか分からない。
この世界で過ごすようになってから、春弥は自分の家族のことを思い出したこともなかった。突然いなくなったことに悲しみを覚えていないわけではない。ただ隣には雫がいて幹靖や和雄もいて。あくまでもこの世界を抜け出せればまた家族にも会えるのだと心のどこかで思っていた。…還ってこないこともあるのだと、考えたこともなかった。
本当に失っていない春弥に、彼の言葉を共感することはかなわない。ただ彼の感情を推測し似せることしか。すなわち、黙って聴く以外ない。相手の気持ちを分かったつもりになって安易な共感を示すほど、失礼なことはない。
そして沈黙。ただ、何か言いたかった。
「………別に変じゃない」
「ん?」
「…着替え持って来る。何処にあるんだ?」
「ああそういえば…、悪いね気を遣わせて。俺の着替えは一階の居間の鞄の中にあるよ」
だいぶ元気そうに話してはいるが、顔の赤味はまだ引いていない。春弥はゆっくり立ち上がるとぱたぱたと階段を下りた。不愉快な熱さ。









コップの水が溢れ出す。
はっと我に返って水道の蛇口を捻り、和雄はコップの水を僅かに零し減らした。タオルで濡れた外側を拭き取る。
あのときの春弥の驚いた顔。割れた地面に飲み込まれて、視界が一気に狭まった。途中突き出た何かに引っかかって、制服が裂けた。落ちた。その後の記憶がない。ただ誰かに抱きかかえられた感覚だけが残っている。だがいったい誰に。助けたのだから悪い人間…ではないのだろう。
初めは春弥だろうかとも考えたのだが、彼は和雄が地割れに巻き込まれる瞬間、まだ地上にいた。それに彼にはそんな超人じみた動きは無理だ。しかし幹靖は熱を出して家で臥せっていたし、雫に至っては春弥を寄越したくらいだ。動くとは思えない。なら誰が。…神様?まさか。
「和雄」
突然呼びかけられて、手に持ったコップを落としそうになる。春弥だ。
「悪いけど、雫残して来てるから帰るよ。二階に行くついでに幹靖の着替えも持ってってやって」
「ああ…」
「それと、やっぱり合流の件考えておいてくれ。別々だと行動の制限が大きい」
彼はびしょ濡れのまま、それでも遠慮しているのかつま先で歩きながらひょっこひょっこと玄関へ向かった。閉まる音。…和雄は言われたとおり幹靖の鞄の中から着替えを取り出すと、水一杯のコップとともに階段を上った。今日の件もあり、和雄も合流するのは最もかもしれないと思った。
「みっちゃん、持って来たよ」
「なあ和雄…」
「なに?」
「鷲宮くんって良い奴だよなあ」
どくん、と心臓が大きな音をたてる。鈍い重み。「え?」と自然に口の端がつり上がった。彼は和雄の様子に気付かずに着替えている。なんだ、なんなのだろう。これは。鈍く鈍くどろりとした何か。春弥。彼は幹靖と仲が悪かったはずで。どうして。
重い。重たい。
いやだ、置いて行かれたくない。









蜂蜜色の髪が風にはためく。雨脚は遠のき、澱んだ空気だけが沈殿しては薄れていく。
自転車で走り去る黒髪の青年の後ろ姿を眺めながら、彼の出てきた家を見る。己の狭い世界を守るために必死になる子供。
「…随分優しいじゃないか」
ねぇ、”神”様?