第七夜.病い








翌日、朝食を摂りながら春弥は雫が起きて来ないことを訝しんでいた。
用意した彼の分の食事も冷め切っている。
「…もしかしてアレの被害に…」
「アレは関係ないけれど、見に行ってあげたほうがいいかもしれないよ」
「!」
声もなく飛び上がる。春弥は突如現れた櫻井の明るい頭を叩き、眦をつり上げた。この男の神出鬼没はいつになっても慣れない。
「どういうことだよ」
「言葉通りの意味だよ。彼はどうやら調子が悪いらしい」
この自称人間様の足下の地面又は空に浮かぶ雲の彼は、そう言って壁の向こうなどお見通しであるかのようにふんわりと微笑した。春弥はそんな彼の微笑を流し見て、眦を引き攣らせたまま、リビングのドアを開け放った。彼の態度は幹靖ほどではないが癪に障る何かがある。それに全能ではないかという疑いのある彼の言葉を聞けば雫の調子が悪いと言う。呑気に彼と話している場合ではないのは明らかだった。
雫の部屋の前に立ち、ドアをノックする。返事はない。だが、鍵は開いていた。
「岩崎?」
ドアを薄らと開けて中を覗き見る。ベッドに横たわる薄い背中。足音を忍ばせて歩み寄ると、彼の不機嫌そうな声が鼓膜を打った。
「…なんだ」
「あ、いやその…起きてくるのが遅いんで調子でも悪いのかと…」
櫻井が言ってたから、とは言えない。彼の姿は雫には見えていないのだから。となると、春弥は雫の部屋へなんとなく来たことになる。二人の距離感からいって、果たしてそれは許される行動なのだろうか。馴れ馴れしいと拒絶される部類のものではないのか。
雫は春弥を睨むと、軽く息を吐いて追い払うような仕草を見せた。
「ああ。だからさっさと出て行け」
「え」
「…お前がいると治るものも治らない。俺の視界から消えてくれ」
その後、ぱたんとドアを後ろ手に閉めた。のは良いが、春弥は唖然としていた。額に脂汗が滲みそうだ。その横から櫻井がひょっこり顔を覗かせ、軽やかなステップで微笑む。
「そう落ちこまなくとも、体調が悪いと人間余裕がなくなるし、毒舌にもなるよ」
「…んだ」
「ん?」
「岩崎の調子が悪いって、どういうことなんだ」
寝ている雫に聞こえる恐れがあるため、声を潜めてはいるものの、春弥の声色は随分と攻撃的な響きを帯びていた。それがいつになく雫にぴしゃりと拒絶されたためなのか、櫻井というふざけた存在に対する苛立ちのためなのかは定かではない。
「知ってるんだろ?」
「本人に聞いた方がいいと思うね」
「さっきの見ただろ。言うわけがない」
「やれやれだ」
やれやれと言いたいのはこっちだ。春弥は櫻井を恨みがましく睨んだのち、一旦リビングまで戻り、テーブルのお椀に盛っておいたご飯を鍋に流し込んだ。水を注いで適当に調節し煮立たせる。一介の男子高校生である春弥は多分の例に漏れずまともに料理などしたことがない。今朝の朝食の卵焼きだのおひたしだのとて、調理実習で習ったものをうろ覚えの記憶でこなしただけなのだ。したがって、病人のためのお粥の作り方も彼にとっては知識の領分にない。
「…いま、アレ大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ」
もはやアレで通じていることが恐ろしい。しかし本当に恐ろしいのは大丈夫だと断言する櫻井の存在に他ならない。彼はいったい何者なのだろう。人間様の足下の道端に生えている雑草だか何だか知らないが、人知の域を超えている。なまじ全ての事項が反転しているかの如き世界であるから、人間よりも雑草の方が優秀なのかもしれない。春弥はそんなことをつらつらと自暴自棄に考えながら、お粥をお椀に盛った。お盆に乗せて、そろりそろりと雫の部屋へと足を進める。…再び拒絶される可能性は言及するまでもなく高過ぎる。
ノックを二回。返事は変わらずない。鍵もかかっていない。
「岩崎ー、その、朝食持って来たんだけど…お粥…」
「いつも思うんだけど、春弥君は岩崎君に対してのみ腰が低いよね」と、櫻井。煩い。
「後で食べるからそこに置いとけ」こちらは雫である。
春弥は密やかに胸を撫で下ろすと、ゆっくりと扉を閉めた。
彼は最悪、「お前の作った飯なんて喰えるか」と罵られるなりお粥を顔面に投げつけられるか、目の前で転がされるものとばかり思っていたので、現実は想像よりもずっと穏やかなものであったといってもいい。常日頃からこの調子であれば、もう少し腰も高く出来るだろうに。…だがそれも、過去を思い出すまでの僅かな間に過ぎない。春弥が雫にしたことは、腰を低くするどころか頭を地面に擦り付けられてもおかしくないことだ。
分からないのだ。春弥自身、何故自分の性格がこれほど極端なものなのか。もっと穏便に生きていけたらどれほど楽だろうと思いながら、美しいものを踏みにじる瞬間の快楽も忘れられそうにない。下劣な快楽。繊細な美が崩れる瞬間。そのときだけ、思考も何もかも溶け出して逃げ出して形をなくす。
「それで今日はどうするのかな?彼も調子が悪いようだし、勝手に動くと怒られるかもしれないよ」
「いざというときはお前が外敵センサーになればいいとして…」
「それも出来ないわけではないけれど、彼を放置しておいて良いことにはならないと思うね」
「そうだった…」
ただでさえ病身の雫を一人残して行くのは危険だ。春弥は窓にへばりついて外の天候を見遣った。…真っ暗な上に更にどす黒い雲が上空に広がっている。一雨来そうだ。
台所へ戻り、ポットに水…お茶の方が良いのだろうか、雫はあまりお茶好きでない印象がある…ひとまず麦茶を注いで彼の部屋へ行く口実を作る。彼の家の台所だというのに、使い慣れた感が何ともいえずしょっぱいような気持ちになる。ポットとコップを手に階段を上り、再び彼の部屋のドアをノックする。
「一応水分もいるだろうと思って麦茶持って来たんだけど…」
「入れよ」
「あ、ああ」
今朝まで見張りのためこの部屋で寝ていたのに、いざ入れと言われると緊張してしまう。ドアを閉めて、ポット及びコップを彼の前まで持って行く。入り口横には空のお椀が置いてあり、ちゃんと食べてくれたのかと思うと新妻ではないが仄かに胸が温かくなった。
雫は上半身を起こし、億劫そうに春弥へと向き合った。
「…どうせ見張りのために来たんだろう」
「…まあそうなる」
気付かれていたようだ。素直に頷けば雫は舌打ちした。全く穏やかでない。春弥はカーペットの上に正座したまま、なるべく穏便にと心中で繰り返し呟きながら、
「体調はどうなんだ?悪いっていうのは」
「…お前が気にするようなことじゃない」
「そうかもしれないけど、こんなときにお前が普通の風邪だとかにかかるとは思えない」
ましてや、たかが風邪で櫻井が春弥にわざわざ教えてくれるとは考え難い。
春弥がじっと雫を見据えると、彼は眉間に皺を寄せたまま、布団の中へと潜り込んだ。
「食中りのようなものだ。一日寝ていれば治る」
「岩崎…!」
「聞き苦しい声を出すな。黙って其処にいろ」
聞く耳持たず。出て行けと言われず、居場所を指定されただけまだ良いが、それでももやもやとしたものは晴れない。













タオルを水に浸し、絞る。
それを彼の額に乗せ、温くなってくれば取り替える。
「…和雄。そんなに頻繁に変えなくていいよ」
「でもみっちゃん、顔赤いよ」
「大丈夫だって。多分夕方までには引くよ」
風邪でもインフルエンザでもない。おそらくはあの気持ちの悪い生命体の影響なのだと和雄は思う。
怪我をして発熱するように、いくら雫が毒素を抜いたとはいえ得体の知れない生物による締め痕には変わりない。多かれ少なかれ身体は抵抗を示すもので、それがこうして熱として現れているのだ、と和雄は顔を顰める。忌々しい化け物。思い出すだけでも吐き気が込み上げて来る。
「…和雄?」
「みっちゃんは俺の前からいなくなったりしないよな?」
幹靖の手を握りしめる。彼がいなくなるかもしれないと思うだけで、言葉に尽くせぬ虚無感に襲われ、己の世界が閉じてしまうかのような恐怖に駆られる。彼なしには和雄の世界は成り立たないのだ。
幹靖は初めきょとんとした顔をしていたが、すぐにくしゃりと微笑んだ。
「…当たり前だろ。俺は和雄から離れたりなんかしないよ」
そして彼は寝転がった体勢のまま腕を伸ばし、和雄の髪をぐしゃぐしゃと撫で回した。そのまま流れるように抱き寄せられ、和雄は彼の胸に耳を押し当てた。生きている、心臓の鼓動。
「みっちゃん…」
「朝から付きっきりで疲れたろ?ちょっと休んだ方が良いよ」
「でも…」
こうして触れている彼の身体は熱い。今朝方計ったときも三十八度近くあったのだ。普通の怪我が原因ではないため、一日二日で熱が引く保証もない。当初、和雄は家に解熱剤があるかもしれないと探してはみたのだが、生憎というべきか使用期限の切れたものしか残されていなかったのだ。どうすれば良いのだろう。あまり長引くと彼の体力にも影響してくるかもしれないし、いつ化け物が襲い来るかも知れない。
こんなことなら春弥を庇わなければ良かったのに、と思ってしまう。
神は春弥かもしれない、と和雄は秘かに考えている。この世界にいる四人を繋ぐのは春弥の存在だからだ。そしてもし彼が神であれば、あの場で死ぬようなことは有り得ない。神なのだから。そうなれば幹靖は助け損ということになる。
「…みっちゃん」
「…ん」
眠っている。和雄はそろりと彼の腕の中から抜け出して、彼の頬に手を当てた。やはり熱い。忌々しく頸に残る痣も、その姿を克明に浮かび上がらせている。一晩経過したにも関わらず、色味は薄まるどころか濃くなっているようにも見えた。腹立たしい。和雄は桶の水を取り替えようと立ち上がった。はた、と動きを止める。
「解熱剤どうしよう…」
実のところ今朝解熱剤を探してみた際に、和雄は隣家で借りてくることも考えたのだった。
しかし必ずしも一般家庭にあるものとは限らず、何軒もはしごするのは時間の無駄どころか命取りになりかねない。春弥のところへ電話して、あれば持って来てもらうということもできるが、もしもなかったら。それに正直、和雄の中にはいま春弥に会いたくないという気持ちもある。化け物に襲われた件について、彼は悪くないということは和雄も分かってはいたが、頭と感情は別物ならしい。それに彼は昨日幹靖に謝るどころか、和雄の目の前で無理矢理連れていったのである。いくら幹靖と仲があまり良くないとはいえ、あの態度はいただけない。
和雄は桶の中の温くなった水を流しにぶちまけながら、どうせなら確実に解熱剤のあるところに行けばいいのだと気がついた。けれども何処が良いのだろうか。病院…は広過ぎて見つけ出せそうにないし、薬局が適当かもしれない。そうと決めたら早いうちに行ってしまおうと、和雄はこっそり幹靖の様子を窺ってから足音を忍ばせつつ家を出た。一人で出掛けたとあっては彼に心配を掛けてしまうかもしれないからだ。床に臥せっている幹靖を残して行くのは不用心であるから、近くの公衆電話から雫の携帯電話に連絡を取った。…彼のことは苦手だがこの際やむを得ないだろう。春弥よりはずっと良い。
『もしもし…』
「もしもし、あの、秋草だけど」
『なんだ』
「実は…」
手短に用件を伝える。すると雫は、和雄を気遣うように言った。
『分かったがお前は大丈夫なのか?』
「うん…すぐ戻るから大丈夫だよ。じゃあ」
受話器を下ろす。一見して冷たそうな青年だが、もしかしたら意外に優しいのかもしれない。和雄は家に戻って自転車に跨がると、颯爽と近所の薬局へと向かった。










雫は携帯電話を枕元へ投げ出すと、春弥に一瞥をくれた。
「緋田のために秋草は解熱剤を取って来るそうだ。お前は向こうに行って来い」
「え、でも」そうなると雫が一人になるのでは、と春弥は言おうとした。
「…俺はお前と違って下手物に好かれる体質じゃないんだよ。とっとと行け」
わけが分からない。しかし行けと言われた以上春弥は大人しく従うしかなかった。反論は心の中ですべしということだ。其処にいろと言われたりとっとと行けと言われたり忙しないことこの上ないが、物事は臨機応変に対応するのが大事らしい。どす黒い空の下、春弥は和雄の家へと自転車を走らせた。
雫に引き続き幹靖まで体調を崩すとは、昨日のことが影響しているとしか思えない。…やはり雫もただの食中りではなく、この世界にまつわる病状なのだろうか。櫻井は本人に聞けと言っていたが、どうにもこうにも雫は口を割りそうにない。全くもって信頼されていないのだから仕方がないのだが。
先日夜だけは合流しようと雫と幹靖が電話で取り決め、本来であればこうして行き来する必要もなくなったはずだった。けれども昨日のアレの件で和雄の機嫌を著しく損ねたため、いつのまにかうやむやになってしまい、今に至る。単独行動は危険なのだから夜だけでなく昼も一緒にいるべきだと今度雫に提案してみるべきだろうか。何故か話し合いの決定権は雫に委ねられている節がある。
和雄の家に到着し、春弥は自転車から降りた。玄関の鍵は開いている。通常であれば泥棒が入ると危惧するところだが、人口が過疎以下である現状では盗人どころか一切問題にならない。
一応病床だということで、春弥は心無し静かに家の中へと入った。彼が和雄の家に来るのは初めてである。
慣れないフローリングの床を靴下で歩きながら、和雄の部屋を探す。子供部屋といえば二階にあるだろうと階段を上り、三部屋あるうちの一室のドアノブを回す。…正解だ。ドアの隙間から幹靖が横たわっているのが見える。寝ているのだろうか。足音を消してお邪魔する。
発熱しているのか、前髪が汗で額にへばりついている。枕元に落ちてふにゃけているタオルは熱冷ましのための乗せていたものだろうか、と春弥はそれを拾いあげた。ぬるい。寝返りを打った際に落ちたのだろうが、これっぽっちも意味を成していない。こんなことなら自分の家の冷蔵庫に入っていた冷えピタでも持ってくれば良かったと溜め息をつき、春弥はタオルを持って一階へと続く階段を下った。台所の流しに、丁度良い桶を発見する。しかし一体何が悲しくて幹靖の世話をしなければならないのだろう。和雄も何処まで行ったものやら。
桶に水を汲んで春弥はえっちらおっちら二階へと戻った。タオルを浸して絞り、幹靖の額に乗せる。火照った頬に手の甲を押し当てると、火傷するほどではないが熱い。ふんぞり返っている雫よりはずっと病人らしいし、なるほど和雄も心配するわけである。こんなときにアレに襲われたらひとたまりもないだろう。
そう思いかけて、春弥はふと昨日の痣のことを思い出した。屈みこんで、横から彼の首筋を覗き込む。…やはりまだ消えていない。指先で軽くなぞると、彼は身を竦ませた。目蓋がぴくりと動く。どうやら目が覚めたらしい。
「…鷲宮…?」
「ああ」
「…和雄は?」
「和雄なら少し前に出掛けたよ」
例え気に喰わない人間であろうと、傍にいる自分以外の名前をあからさまに出されると苛つくのは何故だろう。
幹靖はもぞりと身じろいで、若干辛そうに上半身を起こした。はら、と落ちたタオルを拾い上げ、桶に戻す。
「出掛けたって、岩崎と?」
「いや、一人だな」
半ば予想していないわけではなかったが、幹靖は春弥の言葉を聞くなり布団の横にあった制服の上着を引っ掴み、布団から抜け出そうとした。春弥はそんな彼を冷静な眼で見遣りながら、熱でふらついたところを押さえ込んだ。
昨日の意趣返しをするように顔を寄せる。
「病人は大人しくしてるものだろ。雫を見習えよ」
「っ馬鹿、和雄が襲われたらどうするんだよ…!」昨日の今日だ。彼が恐れるのも分かる。が。
「無茶だろ。こんな状態で行ったところで共倒れだ」
熱の所為なのかは知れないが、涙で濡れた眼で睨まれて、幹靖相手だというのに変な気分になりそうになる。よくよく考えてみれば、世界が歪んでから雫と同居型という奇妙な禁欲生活を余儀なくされている。彼相手にこれなのだから、余程青少年には辛い生活らしい…春弥は焦る幹靖を前に妙に冷めた思考でそう分析した。
勿論…和雄は友人だ。気にならないわけではない。だがどうにも幹靖ほど切羽詰まった心理状態にはなれないのは、昨日の吐瀉物の件を引きずっているからなのだろうか。それとも、…他人の死に慣れてしまったのか。義務感で和雄を守らねばならないという思いはあるものの、実際はそこまで彼に対し思い入れがないのかもしれない。とんだ冷血漢である。
幹靖は抵抗するのに疲れ果てたのか、肩で呼吸をしながら眼を伏せた。
「…頼むから和雄を連れ戻しに行ってくれ」
「そしたらお前を一人残すことになるんだけどな」
「良いから」
本当は喋るのも億劫なのだろう。春弥は仕方なく幹靖の手を放し、身体を起こした。和雄は友人だ。幹靖が無理さえしなければ助けに行かないという道理もない。
春弥は濡れタオルを幹靖の額に置き直すと、部屋を出て階段を下りた。雫の話によると和雄は近所の薬局に向かったとのことだが。あまりこの辺の地理は詳しくないため、春弥は本棚にある地図帳を開いた。…近隣にイシヅカ薬局があるらしい。春弥は玄関の鍵を開けっ放しにし、イシヅカ薬局へと向けて自転車のペダルを漕いだ。今日は移動ばかりしている。まるでパシリだ。