第六夜.雑巾









鋏が突き刺さり、ヘドロがぷつんと音をたてる。
その瞬間、穴から黒く濁った液が噴水のように激しく飛び散り、傍にいた春弥の顔や服に付着した。





「みっちゃん…」
離れたところからは和雄のおののく声が聞こえる。慰めてやりたいのに酸欠で指先が震える。妨げられていた酸素が急激に体内に入り込んで来て、幹靖は噎せ返った。視界が点滅を繰り返す。奇妙な煤が絡み付いていた頸回りに何かが染み込んだかのような違和感がある。汗が噴き出る。
「大丈夫か」
頭上から雫の声が降って来て、幹靖は声のした方を見上げた。怜悧な美貌。一瞬見蕩れてから、頸に絡み付いていたものが完全に消え去っていることに気付く。唖然として彼を見る。彼もその瞳に僅かな戸惑いを乗せているように幹靖には思えた。

手当てをすると雫に言われて別室に案内され、幹靖は座布団の上に腰を下ろした。微かな違和感の残る頸をなぞる。
世界がおかしくなり始めた日、彼に人間を襲う得体の知れない生物のことを告げられてから、半信半疑ではあったもののそれなりの警戒はしてきたつもりだった。ペアを組んだ和雄とは離れないようにしていたし、彼が眠っているときも片時たりとも目を放したりはしなかった。それが今日、このような形で現実として突きつけられるとはどうして予想できただろう。今も尚、締め付けられ呼吸を奪われる感覚が皮膚の上に残っている。世界が歪んで、初めて死を身近に感じさせられた。
…今頃、和雄は怖がっているかもしれない。
「…秋草のことが心配か?」雫の冷徹ささえ感じられるほど端正な顔が、幹靖を見据える。
「和雄にはまだ得体の知れない生物のことを話してなかったからな」
追々話すと言っておきながら、彼の受けるであろうショックばかり考えて後回しにしていた。結局、それがこうして裏目に出て彼を余計に追い詰めるような結果になってしまったのである。幹靖は己の短慮な行動を思い返し、自責の念に駆られていた。
「他人のことを心配するのもかまわないが、今は自分のことを優先した方が良いんじゃないのか」
頸の、違和感。締め付けられたときの、何かが染み込むような感覚。
「アレは消えたが毒素のようなものが残っているのかもしれない」
アレ、というのはおそらく頸に絡み付いて来た生物のことだろう。あまりのおぞましさに思わず身震いしそうになる。それを態度に出さぬよう努めながら、
「なあ岩崎くん。一つだけ聞きたいのだけど」
「くんはいらない」
「…岩崎、…崎くん、しずくん、おしず」
「まともに呼べよ」
「さっきのこと、気付いたろう?岩崎が来た瞬間あの生物が消えたこと」
雫の表情に険が混じる。しかし、彼自身気付いていなかったわけがない。でなければこうして幹靖の手当てをしようとも思わないはずだ。
「…俺が触れれば毒素も取り除けるかもしれない」
「そうかもしれない。俺もその方が有難いし、そうなれば感謝もする」
「お前は俺が神だとでも言うつもりか?」
言外に匂わせた疑いを嗅ぎ取ったのか、雫の眼に昏い色が混じる。そこに鋭利な光の筋が浮かんで、挑発的な色合いを帯びる。幹靖は降参するかのように両手を上げて微笑んだ。彼と喧嘩がしたいわけではない。
「いいや。神としての”可能性”なら岩崎よりは鷲宮の方が遥かに高い」
「…」
「岩崎だってそう思ってるんだろ?」
「あれだけ馬鹿な神がいればの話だがな」
雫は吐き捨てるように言うと、両手を幹靖の頸に伸ばした。絞め殺されるわけではあるまいに、つい先程の息苦しさを思い出してしまい、幹靖は肩を強張らせる。死の恐怖は一度味わってしまうとなかなか消えるものではない。
雫はあっさりと言ってのける。
「鷲宮相手でもあるまいし、息の根を止めたりするつもりはないから安心しろ」
「…それは随分と微笑ましい仲だことで…ぅう」
「例え冗談であっても次同じことを言ったら絞め殺すからな」
春弥はこの青年に何をしでかしたのだろう。これは並大抵の恨まれようではないと幹靖は雫の手ごと喉を押さえた。塞き止められかけた呼吸を整える。トラウマになりそうだ。もうネクタイだのマフラーだの巻けないかもしれない。無論それは、元の世界に戻れたらの話だが。
「…浸透してるな」
以前聞かされたときはヘドロだの生き物だのなんだそれはと思ったのに、いつの間にか見えるようになっているのだから摩訶不思議である。それと同様に、不可解ではあるが雫には蓄積した毒素が見えるのだろう。…見える見えないには個人差があるらしい、と幹靖は結論を下した。
…のだが。
「…ちょっと待った」
「…なんだ」
制止したのは雫がずい、と接近してきたのを感じたからだ。
見れば彼は今にも喉元に噛みつかんとしている。
「…何をしようとしているのかな」
「触れるよりは直接吸い上げた方が早かろうと思ったんだが」
傷口から毒を吸い出す場面というのは漫画やアニメでは頻繁に見られるが。幹靖は戸惑った。
命にかかわるかもしれないこの状況下において、たかが吸引に戸惑うなどと、くだらないことだと分かってはいるのだが、やはり抵抗がある。
何故なのだろう。自分から誰かに対して触れることは何ら抵抗はないというのに。
「…緋田」
「あ…悪い」
意識しているのだと思われたくなくて、ゆるりと手を外す。そうだ、これはただの治療なのだ。何も怖がることはない。…怖がる?自分はいったい、何を怖がっているのだろう。
幹靖は湧き上がって来る感情を押さえつけ、さりげなさを装って微笑んだ。
「いっそこの世界から出られるまで、消えないような痕をつけてもらうとしようかな」
すると雫も何を思ったのだろう、幹靖の柔らかい髪を指先で弄りながら、こんなことを言った。
「どうせ二回目だ。気にするな」
「…ん?」
「お前が一度窒息死しかけたとき、人工呼吸した回数も含めて」
…それは雫が幹靖に形を問わず口付けた回数ということだろうか。
数秒意識を飛ばした間にそんなことがあったとは露知らず。幹靖はいささか嘘偽りのある満面の笑みを浮かべ、感謝を込めて大袈裟に雫を抱擁した。
「有難う。岩崎は俺の命の恩人だな」
…ほら、やっぱり平気だろう。
それからゆっくりと身体を離し、書き残されたメモを見た時から考えていたことを思い出す。春弥や和雄にはあまり聞かれたくないこと。
「神を殺したらどうなると思う?」








「みっちゃん…」
和雄は部屋で一人膝を抱えていた。震えが止まらない。
後から思い返してみれば短い時間ではあったが、不気味な生物が消え失せた直後、幹靖の呼吸は完全に止まっていたのである。ぴくりとも動かない。もう少し蘇生が遅ければ彼は確実に死んでいた。
それは果たしてどういうことか。あるはずのなかった死の影が、突然和雄の前に姿を現したのだ。和雄は自分の心臓が悲鳴を漏らすのを聞いた。冷えた汗が噴き出し、心臓の鼓動が生々しく感じられる。瞼の裏に張り付いた、血の気のない幹靖の顔。死。リアリティのない想像上の喪失。目の前で消えかけた彼の命!死とは圧倒的な喪失感だ。つい先程までは一緒にいた、確かにあった存在が、ふとした拍子に動かなくなる。何故動かないのか。意思の疎通も叶わない。繋がりの断絶。彼という存在が視野から消えていなくなる。理不尽な、

「みっちゃん…」

すぅっと意識が余所へ逃げ出そうとする。張りつめた感覚を死から遠ざけようとする。
けれど脳裏にへばりついていた映像が安息を退ける。醜悪な生命体。アレは生きていた。アレはアレはアレはアレは飛び散って床を汚して春弥に張り付き幹靖の生命を吸い上げんとし。中の臓器が透けていた。そうアレは生き物だった。血管が張り巡らされていた。循環していた。だから春弥の鋏が突き刺さって飛び散ったのは体液なのだ。

吐いた。

苦い。気持ち悪い。アレは何なのだ。そうだ。幹靖は知っていたのだ。だからいつも警戒していたのだ。アレは至る所にいるから。そう至るところにいるのだ。こうしている今もきっと傍にいるのだ。物陰に隠れている。
全身が総毛立つ。
ぶるぶるぶるぶるぶるぶると悪寒が止まらない。誰か。誰か来て欲しい。けれど幹靖も雫も春弥も何処かへ行ってしまった。










「ごめんね?」
「何が」
「いいやなんとなく言ってみただけ」
櫻井のあっけらかんとした物言いに、春弥は大きな溜め息をついてみせた。
一階の惨状はそのままに、春弥は櫻井に呼び出され二階の一室にいた。
「和雄を一人にしておくとまずいんだよ…分かるだろ」
「ああ頭がおかしくなっちゃうよって?」
優しげな微笑とは裏腹に、櫻井の発言は全くもって優しさの欠片もなく笑えない。今回の発言はさすがに度が過ぎていると思った春弥は「櫻井!」と声を荒げたが、櫻井の表情や声色には相手を貶める雰囲気はなく、空回りの感は否めない。暖簾に腕押しだ。やり難いことこの上ない。
「そうじゃない。ただでさえ幹靖が死にかけて、和雄は不安がっているだろうし…さっきみたいな…」
「大丈夫だよ。いま、それほど荒ぶっちゃいないから」
「…どういうことだよ」
「秋草くんが襲われる心配はないってことさ」
眉を顰める。やはり櫻井は全てを知っているとしか思えない。本人は神ではないと主張しているが、”世界の一部”で済ますにはあまりにも状勢を掌握し過ぎている。…彼の目的はなんだ。春弥達が翻弄されるのを見て、面白がっているのだろうか。
「お前いったいなんなんだよ」
「だから君の世界の一部さ」
「そういう…偏った視点でなくて、全体像を示すうちの何なのかってことだよ」
「そうだなあ。人間様の足下に敷かれた地面…か、空に浮かぶ雲ってところかなあ」
真逆も良いところだ。春弥は癇癪を起こしそうになる自分を押さえようと、深呼吸した。
櫻井は本棚から本を取り出しぱらぱらと目を通しながら、何気ない口調で言った。
「随分とお困りのようだから、ご親切な僕が珍しく君に忠告しておいてあげよう」
「なに?」
「お友達にはね、頼り過ぎちゃ駄目だ。でも適度に頼らないと、自分も友達も駄目になってしまう」
「そんなこと…」
分かっている、と春弥は続けようとした。頼り過ぎては甘ったれた駄目な人間になってしまうし、相手の重荷にもなる。けれど全く頼らないと自分も辛いし、相手は信頼されていないのかと思うようにもなる。適度な重さが間柄には必要なのだ。
けれど。
「分かってるだけと行動に移すのは違うってこと、…分かってる?」
櫻井は微笑している。櫻井の声色は冷たい。笑みが紛い物だというわけではない。声だけが。
「…櫻井、怒ってるのか?」
「怒ってないよ。…ごめんね、吃驚させたのなら謝るよ」
櫻井は微笑している。櫻井の声色は優しい。笑みが紛い物だというわけではない。ただ。
「ほら、そろそろ戻らないと、秋草くんが心配なんだろう?」
「う、ん…」
彼は春弥の髪をぐしゃぐしゃと掻き回し、軽く叩いた。完全に子供扱いしているし、実体のないはずの彼に触れられると奇妙な気分になる。それに。春弥は俯いたままズレた眼鏡を直した。和雄も心配だが櫻井も心配だと言ったらこの男は怒るだろうか。立った今垣間見た歪さが春弥の心を掻き乱す。そう、彼は歪だ。笑っているのにどこか、奇妙なのだ。だが、それを本人にどう告げたらいいのか分からない。告げていいことなのかも分からずに、春弥は細い息を吐く。



リビングに戻ると、和雄が吐いていた。
つんと饐えた匂いがして、春弥は息を止めた。慌てる気持ち。雑巾を持って来なければという気持ち。…汚らしいという気持ち。それぞれの感情が綯い交ぜになって、気分が悪くなる。洗面所に向かい、雑巾を濡らす。平静さにぷつぷつと穴が開き始めている。まずい、と頭の片隅で思う。汚らしいものは苦手だ、と思う。苦手どころか嫌悪に値する。自分では押さえ切れぬ嫌悪が漏れ出して、気分が悪化の一途を辿る。美しいものは好きだ。醜いものは嫌いだ。極端な感情。春弥の中で唯一尖り切った価値観。過剰反応だということは春弥自身分かっている。だが止められない。醜いものは嫌いだ。だから醜いものを嫌う自分の醜い感性も嫌いだ。
雑巾を吐瀉物に押し付ける。糸を引く。和雄を罵りたくなる。情緒不安定にもほどがある。和雄の顔面に雑巾を押し付けてやりたくなる。和雄は泣いている。
「ごめん鷲宮…」
「…あんなものを見たんだ、無理もないさ」
謝るくらいなら吐くなよと言いたくなる。醜い精神。春弥は雑巾をゴミ箱へ捨てる。台所で手を洗う。石けんを擦り付けて何度も洗う。感情の発露に息が切れそうになる。何故こうなるのか春弥自身分からなかった。ただ昔からこうで昔から美しいものが好きで醜いものが嫌いで。
「鷲宮、大丈夫か」
そう言ったのは廊下から台所を覗いたらしい雫だった。彼の姿に、汚された記憶が霞む。
「…幹靖は?」
「緋田は無事だ。毒素は抜いてある。そのうち治るだろう」
視線をリビングへと送れば、幹靖と和雄の姿が見えた。幹靖は甲斐甲斐しく汚れた和雄の顔を濡れタオルで拭いてやっていて、和雄は不安と喜びの入り交じった表情をしながらそれを享受している。こういうときこそ助け合いの精神が大事だということは分かっていたが…春弥は己の神経を逆撫でされるような感覚を覚えた。
…幹靖の頸には薄ら絞められた痕が残っている。
「…幹靖」
「?どうした」
「ちょっと来いよ」
幹靖の手首を引っ掴んで、隣室まで引きずる。途中、和雄の声が聞こえたような気がしたが無視してドアを閉めた。
「どうしたの鷲宮くん」
彼は手首を押さえながら不思議そうな顔をして春弥を見ている。それもそうだろう。これまで春弥から幹靖に干渉したことはない。春弥としては、出来るだけ幹靖は関わりたくない相手なのである。
「お前どうして俺を助けたりしたんだ」
「どうしてって言われてもねぇ。鷲宮くんが襲われそうになってたから?としか言い様がないんだけど」
「余計なお世話なんだよ。お前が怪我でもしたら和雄が泣くのだって分かってるんだろ?」
例え気にくわない相手であっても本当は礼を言わねばならないというのに、つい感情のままに言葉を吐き出してしまう。和雄の吐瀉物を片付けた後であるが故に尚更だ。神経がささくれ立っている。
「そうだけど…、もしかして鷲宮くんてば俺に助けられて屈辱だとか思ってる?」
図星を突かれて耳までさっと赤くなる。醜態だ。春弥は幹靖の視線を避けるように俯き、奥歯を噛み締めた。きっと幹靖は今頃馬鹿にしきった顔で春弥を見下ろしているに違いない。最悪だ。最悪だ最悪だ。少しでも絆されかかっていた自分の心が恨めしい。
「馬鹿だな」
そしてまさかの直球か。怒りにつられて春弥が思わず顔を上げると、幹靖に襟首を掴まれた。顔が近い。前髪がうっとおしい。
「なんだよ…」
至近距離で何か物言いたげに歪められた眼差し。春弥が彼の顔をこれほど間近に見たのは初めてのことで、意外に長い睫毛や整った造形に何故か後ろめたくなると同時に嫌気が差す。春弥は睨むように彼を見返した。
やがて彼はまるで込み上げて来た激情を堪えるように唇を引き結ぶと、春弥の襟首を放した。
「悪い」
「…何か言いたいことがあったんじゃないのか?」明らかに先程までの幹靖は喧嘩腰だった。
「いや…ちょっと嫌なことを思い出しただけで鷲宮には関係ない」
彼は動揺を押さえるように春弥から顔を背けた。制服の襟から覗く頸の絞め痕が痣になっておりひどく生々しい。
沈黙が流れる。不自然さを残したまま部屋から出て行く幹靖の背を見ながら、春弥はこの生活に絡む疎ましさを思った。