第五夜.蜜










先の見えぬ迷路に迷い込んでいる。
どう動けば現状を打開出来るのか。そもそも現状とはいったいなんだ。
モノクロのかをりの漂う世界。自分達以外の住民は姿を消し、奇妙な生物が出現しては人を喰らう。惰性の塊。
どうすれば元の世界に戻れるのか。この怠惰な夢を終わらせることが出来るのか。
出口はない。門をこじ開ける鍵さえ見つからない。

物憂げな昼夜。
漆黒を纏った昼の最中、春弥は部屋の片隅に佇む一人の若者を視た。
昨晩出会した薄い青年。優しい蜂蜜色の髪。薄っぺらい身体。彼は親しげな微笑を浮かべ、春弥に話し掛けて来た。
「君はあの眼の見えない子のことが好き?」
周波でも関係しているのか、今日の彼の声は鮮明に聞こえる。その声色は柔らかく快活ささえ感じられて、不思議と恐怖はなかった。
「…お前…」
「僕は櫻井十和。呼ぶのは苗字でも名前でもどっちでも良いよ」
「…櫻井は何者なんだ?ひと…なのか?」
「違うよ。…人っていうのは君のお友達のような存在のことをいうんだ」
櫻井は優しげに微笑んだまま、ソファに腰掛けた。重みがないのかソファは全く沈まない。
「ならお前は何なんだ。あの汚らしいヘドロでもない。人でもない、なら」
「強いて言うなら世界の一部かな。でもそんな言い方は何の説明になってないね。君にとって自分以外は世界の一部に過ぎないわけだから」
ああでも、あの眼の見えない子は違うよね、と櫻井は言う。
その瞬間、胸の奥にどろりとした不快な熱さが込み上げてきて、視界がブレた。思わず口を押さえる。雫。彼は異物だった。脅威だった。櫻井は邪気のない笑みを浮かべたまま、転がっていたクッションを抱える。彼の口調は決して攻撃的ではなく、むしろ澄んだものであったが、どことなく対峙する相手の居心地を悪くするかの如き響きがあった。まるで彼と向かい合う自分の方が汚れきった存在であるかのような錯覚に陥りそうになる。
「とにかくお前は人じゃないんだろう?人の形をしているだけの異物であって」
「…まあそうなるね。でもこの世界ではどちらかと言えば異物なのは君達だよ」
「…その”この世界”ってのは何なんだ。今こうしてある世界は何なんだ?」
櫻井がこの世界における正常なる存在だとしたら、その答えを知っているはずだ。そして、その答えが分からなければ、春弥達にこの世界を抜け出す術はないのだ。春弥は危うく揺れ動く櫻井の影を逃すまいとするかのように見据えながら、彼の返答を待った。彼はきょとんとしたのち、淡い微笑を唇に刻んだ。その唇から紡ぎ出された言葉は予想だにしていないものだった。

「教えたくないなあ」

「っは…?」
唖然として開いた口が塞がらない。春弥にとって、知らないという返事はまだ予想の範囲内であった。しかし、知っていながら拒絶されるとは考えもしていなかったのである。それは櫻井の人畜無害そうな容貌を眺めていれば尚更のことだ。
春弥は一歩二歩と前へ進み出て、櫻井を見下ろした。情緒不安定の気のある春弥にしてみれば手を出さないだけ自制出来ている方だといえる。もとより、出したところでこの櫻井という青年の身体は透けて通り抜けてしまう可能性も高い。
「それはどういうことなんだ」
「文字通り、言葉通りの意味だよ。僕は君にそれを教えたくない。まだ知って欲しくない」
「だからそれはどういうことなんだ。まだって…」
二度も三度も同じような意味の言葉を繰り返され、春弥はムッとして同じ言葉で聞き返した。押し問答も良いところである。櫻井はクッションを抱きかかえたまま、春弥に向かって微笑みかけた。
「とにかくまだ駄目だよ。本当は僕は君と接触する予定だってなかったんだから」
「だからそれは」
「あんまり君が可哀想だからっていう僕の優しさ。以上」
「おい…!」
櫻井はすっくりと立ち上がると、呼び止めようとする春弥に見向きもせずにリビングのドアを開けて出て行ってしまった。後を追うべく春弥もリビングから飛び出したが、
「…何処へ行くんだ?」
電話を終えて戻って来た雫と鉢合わせする形となってしまい、勢いを削がれた。雫の冷徹な視線が痛い。
「その、今…此処から誰か出ていかなかったか?」
「お前以外誰も出て来なかったが何かいたのか」
「何かというか…」
人ではないが人なのだ。説明に困って春弥が視線を彷徨わせると、雫はじっと玄関の方を見遣り、それから何事もなかったかのようにリビングのソファに腰を下ろした。テーブルの上に乗せられたティーカップが震え、中身が零れそうになる。紅茶の表面に映る雫の不機嫌そうな面持ち。櫻井のときには感じなかった恐怖の感情が、ぽたりと胸の底を打って広がる。雫は春弥にとって唯一の異物だ。世界ではない一人の人間としての。だからこそ、彼の感情には敏感になる。恐れ戦く。
「緋田からの伝言だ」
「ああ…」幹靖と和雄は今朝方自転車で探索に向かったらしい。電話はそのときを含め二回目になる。
「住民は確認出来なかった。が、今朝方まで誰かがいた痕跡があった」
「…飲みかけのコップが温かかったとかそういうのか?」
「日付の記入されたメモが置いてあったらしい。書き残してあったのは、”神”だけだそうだ」
「…かみ?」
それはあまりにも…浮世離れしたメッセージではないか。これがゲームや漫画の世界の出来事であったら十中八九笑い飛ばしていたことだろう。笑い飛ばすまでいかなくとも、受け流しはする。そのメモを拾った幹靖とてそうだったろう。特に彼はその手の展開を嫌う。良くも悪くも春弥以上に現実主義なのである。
しかしこれは否応無しに春弥達にとっては現実であって、回避出来ぬ状況なのである。神。…かみさま。宗教心の欠片もない春弥には縁も所縁もない単語だ。一日本人として日々の暮らしの中にクリスマスや葬式という宗教行事を組み込んでいるとはいえ、常日頃から神を称えているわけでもない。かといって神頼みをするような性格でもないために、春弥と神と崇められる存在とはほぼ接点が存在しないのである。それがこの世界に放り込まれてから突然「神」などとピンと来ようはずもない。…雫も同じようで彼も割り切れないような顔をしている。
「…この世界には神がいるってことなのか?」
「…居たところで何の不思議もないな。今更」
以前の世界にはなく、現在の世界には在るもの。反転した世界。しかし…神と思しき存在がいるだなどと、有り得るのか。そもそも神とは何だ。この世界を作り出した張本人なのだろうか。そのメモは元凶である神を見つけろと…言っているのだろうか。
…櫻井は?あの人でない彼は神ではないのか?あの何もかも知っていそうな口振り。どうなのだ。
春弥は雫の顔を凝視したまま、拳を握った。先程の反応から、雫には櫻井が見えていないことは明白だ。だが、何故。毒素の塊であるかのようなヘドロは見えて、儚さを実体化したかのような櫻井は見えないのか。同じ異物ではないか。何故見えない。…もどかしい。
「これはあくまでも一つの推測に過ぎない」
「?…」
不意に雫が切り出した。彼は何を言おうとしているのだろう。
「仮に神がこの世界を構成した主であるとしても、少なくとも神は俺たちに関係のある者の可能性がある」
「…俺たちの中に神がいるとでも言うのか?」そんな馬鹿な。
「言ったろう。これは一つの憶測に過ぎない。否定する根拠がないだけでな」
…自分達の中に神がいるとしたら、その人物に自覚はないのかもしれない。でなければ、好き好んでこの世界に留まる理由などありはしない。…雫にも、幹靖にも和雄にも。それとも、自覚がありながら黙っているのか?だが、いったい何のために。それが責められたくないからなのか、将又この世界を気に入っているとでも言うつもりなのか、春弥には分からなかった。しかし、どうしてこんな世界を造り上げようだなどと思うのだろうか。太陽の光さえ届かぬ地下で暮らしているとしか思えぬこの世界を。
ましてや。
「…岩崎…」
彼の言葉。神がこの世界を構築した主であると仮定するならば。とある一つの選択肢が生まれてきはしないか。











「神って、やっぱり神様のことなんだよなあ…」
ソファで寝転がった幹靖を眺めながら和雄は一人呟く。彼と民家を探索中、ふと一軒だけ明かりが点いていたので入り込んだ。そこで残されていたメモ。果たして誰が書き残したものなのだろう。自分たち以外にもまだ生き残りがいるとして、時期悪く擦れ違ってしまったのか。先程から幹靖は余所様のお宅だというのに雑誌を顔に乗せたままぴくりとも動かない。もしかして食料を拝借したついでに眠ってしまっているのではないかと思うくらいだ。
「みっちゃん、起きてる?」
「ただいま熟睡中だよ」
「なんだよ起きてるじゃないか」
そう言って和雄が口を尖らせると、彼は左手に持っていたメモと顔に乗せていた雑誌をテーブルの上に置いて、勢いよく身体を起こした。大きな欠伸を一つして、和雄を見遣る。
「飲み終わった?」
「何が?」
「オレンジシュース」
「みっちゃんが死んでる間に飲んだよ。もしかして寝惚けてるのか?」
和雄は言ってから自身の発した「死」という響きに怖気を感じた。いつもの調子でつい言ってしまったが、この状況下で使って良い言葉ではなかった。思わず幹靖の顔色を窺う。
「み…」
「うんひょっと寝惚けてる」
…彼は顔を両手で覆ったまま、くぐもった呻きを漏らした。どうやら気にしていない様子である。和雄は胸を撫で下ろした。
「…」
それでも、押さえた胸の鼓動が制服越しに伝わってくる。背筋が寒い。不思議だ。いくらどこか歪な世界に置かれているとはいえ、自分や幹靖が死ぬなど、あるはずがないのに。残されたというだけで、死が自分たちに迫ってきたりするわけではないのに。
”死”はこの尋常でない状況において不吉な言葉だ。だがこれまでに和雄に直接的な死が迫ったことは一度もない。それなのに、何を恐れる必要があったのだろう。和雄は自分に言い聞かせる。この世界は少し変わっているだけだ。いざというときは幹靖だっていてくれるのだ。何も不安に思うことはない。
…その言い知れぬ不安が、幹靖の”この世界への警戒感”から生じるものだとは和雄は気付かない。意識の淵にまで上って来ないのだ。
「和雄?」
不意に目の前に幹靖の顔。和雄のおかしな様子に気がついたらしい。その怯えを悟られまいと反射的に和雄は飛び上がり、勢い余ってソファごとひっくり返った。埃が舞う。いたた…と頭を抱えると、苦笑している幹靖に頭を抱えた側と反対の腕を引いて起こされた。
「全く、和雄はドジッ子スキルが高いからなぁ」
「今のはみっちゃんのせいだろ!」
「なんで俺のせいなの。ほら、いつまでももたもたしてないの」
幹靖は笑いながら和雄の服についた埃を叩く。まるで彼が自分の母親のようで、和雄はむくれた。高校生にもなってその扱いは傷つく。
一通り叩き終わったのか、幹靖は腰に手をついて和雄の顔を覗き込んだ。身長差があるので彼が少し屈むようになるのは仕方がないのだ。
「じゃあこれから鷲宮くんのところ行くからな」
「え?さっき電話で話したばっかりじゃないか」
「良いの良いの。こういうことは直接聞くのが大事なのだよ和雄くん」
ふざけている。正直幹靖の態度ほどこの状況にそぐわないものはないのではないかと思いながらも、その明るさに救われていることを和雄は自覚していた。その証拠に、先程まで感じていた不安も薄らいでいる。
「それじゃあ忘れ物はないか?トイレ行っておく?」
幹靖はにかっと笑って和雄に最終確認をした。










「なあ、お前は…神、ではないんだろ?」
春弥は雫の目を盗んで櫻井と落ち合うなり尋ねた。ヘドロはともかく、雫に櫻井は見えていないのだ。だからなのか、雫に彼のことを言ってはいけないような気がしてしまう。櫻井は一瞬真顔になったのち、雫に声が聞こえないのを良いことに笑い声を上げた。
「あはは…!僕が神って、それはないよ…っ」
「…別に笑うほどのことじゃないと思うんだけどな」
「ごめんごめん。ついね。ブフ、うん、申し訳ないけどね、僕は神じゃないね」
この櫻井という男は負の感情がないのではないかと思うほど笑ってばかりいるな、と春弥は思った。この男が神ではこのような昏い世界が出来るわけがない。春弥はひそやかに溜め息をつくと、眼鏡のレンズを拭いた。
「じゃああの神ってのは何なんだ」
「神様じゃない?あの初詣とかでお祈りする」
「ふざけるな、本当に知らないのか?」
本来ならこの手の物事をすぐに茶化す輩は春弥は嫌いなのである。しかし櫻井は特殊な存在であるから蔑ろにも出来ない。彼は微笑を浮かべたままソファに軽く腰掛けた。体重がないのだから立ったまま話してもいいだろうに。彼の身体は出会った当初から変わらず透けている。
「何を期待してるのかは知らないけど、僕は君の望むような有力なキャラクターではないからね」
「有力なキャラクターになろうと努力する気はないのか」
「そういうのはさ、"神"様のお仕事なんだよ。分かるかな」
櫻井の声色に皮肉めいた響きはない。彼はあくまでも朗らかに春弥に接している。春弥は明るい人間も嫌いだった。明るさが取り柄のような人間といると、自分自身の醜さが引き立ってしまうからだ。
「…神」
「考え込むのも良いけど、君のお友達が来たようだよ」
櫻井が指摘するのと同時に玄関のインターフォンが鳴り響いた。この青年は本当に全てを知っているのではないかと思ってしまう。知っている上で、黙っている。最悪だ。春弥は櫻井を置いて階段を下りた。既に雫が出迎えていて、玄関には呑気そうな幹靖と和雄の顔があった。
「鷲宮くんが俺に会いたかろうと思ってさ」語尾には星さえつきそうだ。うっとおしい。
「神について何か分かったのか?」
「いいや。そのことについて、お前に聞きたいことがあってだな」
雫は紅茶をいれてくるとのことで、台所へ引っ込んだ。春弥は幹靖と和雄を引き連れ、リビングへと移る。和雄がトイレに行くと言うのでその方向を指差してやった。
「漏らすなよー」
「みっちゃん煩い!」
和雄はプンプン言いながらトイレの方向へと向かって行った。ドアが閉じられると、幹靖の表情が神妙なものに変わる。胸がざわざわする。
「岩崎から多少は聞いたろう?」
「この世界を構築したのは神かもしれない。そして神は俺たちの中にいるかもしれない」
「神がいるとしたらその自覚は果たしてあるだろうか?どう思う」
「あるとしたら悪意があるとしか思えない」
「神がいるとしたら、自覚はある。でなければ神と書き置きするのもさせるのも無理だ。例え珍妙な人間がいたとして、傍から見てそれが神だと思うか?名乗らないと」
まあ余程神々しい光を発していれば話は別だけどな、と幹靖は軽口を叩いたが、すぐに口調は淡々としたものへと戻った。
「ただ一つ言えるのは、書き置きをした人間は神本人又は神と会っている。神頼み…したとはどうにも考え難いからな」
…幹靖がへらへらしていると苛立つ。けれど、幹靖が真面目な顔をしていても落ち着かない。彼をまともな人間だと思いたくない気持ちが春弥の中にはある。
「だったら何だって言うんだ?」
「もしも俺たちの中に神がいるとしたならば、ペアが片棒を担がないといけないんだよ。あそこまで行くのには自転車が必要だから、仮にお前が行ったところでさすがに岩崎も気付くだろうし。逆も然りで。ああ…でも、俺と和雄の場合はどちらかが予め仕込んでおけば、二人で行ったときひょっこり置けばいいんだもんな」
あれなにこれもしかして俺容疑者なの?鷲宮くん。と、幹靖は大袈裟に戯けた。…この男は最後まで真面目に話が出来ないのか。
半ばうんざりした目で見遣れば、幹靖は取り繕うように手をぺらぺらさせながら笑った。
「まあまあ、これはあくまでも俺たちの中にいるってことが前提だから。いなきゃ意味ないから」
「仮に、その神が書き置きした人間に会ったとして、わざわざ神って名乗るものなんだろうか」
「余程自己顕示欲が強ければ名乗るんじゃないかな。まあそんな神がいたら探さずとも自分から登場してくれそうなものだけど」
どちらにせよ、神と書き置きする…させることに一体何の意味があるって言うんだろうな。
と、幹靖。 話が一段落ついたのか、彼は和雄遅いなー様子見て来た方が良いかなーと呟いている。なので春弥も雫を手伝ってこようとして、ドアノブに手を掛けたのだが。
「鷲宮…!」
背後から幹靖の焦ったような声。…なんだ?
気がつけばドアノブから黒い煤が手首へと伝い、凄まじい勢いで肩へとよじ登らんとしていた。煤が固まってヘドロと化す。ドアノブから手を放そうとする。
…放れない!
皮膚から異物が染み込んで来るような感覚に鳥肌が立った。その瞬間、幹靖の栗色の髪が視界に飛び込んで来て、手のひらが引き剥がされるような痛みが走った。彼の身体ごと床に倒れ込む。背中に鈍い衝撃。
「い、っつつ…」
手のひらを見る。皮膚は剥がれてはいないようだ。少し視線を下ろせば、胸許に春弥の上に覆い被さったままの幹靖の頭部が見えた。
「…幹靖?」
「ッ…う」
彼の口からは呻き声が漏れ、肩が震えている。
どうかしたのかと思い彼の肩を抱き起こそうとして、春弥の目は彼の首元に釘付けになった。
…煤が彼の首を締め上げている!
「幹靖!」
指を引っかけ、引き剥がそうとすると、それはより締め付けを強くしていくようだった。幹靖の顔色に死が過る。
「みっちゃん?!」
廊下からは和雄の声がしたがもはや耳に入らない。どうしたらいい?どうしたらこいつを助けられる?
自分を助けたが故に幹靖に死なれるだなど冗談ではない。
春弥は戸棚にあった鋏を手にし、それを彼の頸に突き立てた。
噴き出す。