第四夜.不協和音








春弥が眠りについたのと同じ頃、和雄は布団に包まり縮こまっていた。
寝た方が良いという幹靖の言葉を聞き入れて布団に潜り込んでみたものの、眼が冴えて寝付けないのだ。修学旅行前さながら興奮して頭が覚醒しきってしまっている。純粋な楽しさが靄のかかった薄気味悪さへ置換されていることを除いてだが。何が具体的に薄気味悪いわけではない。人がいないだけで…具体的な何かがないからこその気持ち悪さだ。現状の意味することが和雄には理解出来ない。和雄は枕に頬を押し付け、微かな息を吐いた。視線だけ起こせば幹靖の若くしなやかそうな背中が見える。彼が中学の頃、運動部に所属していた所為か、体つきに無駄な肉は一切なさそうに思える。運動神経がしっかり体内に根付いているとでも言えばいいのだろうか。貧弱な自分とは大違いだ、と和雄は思う。
「みっちゃん…」
「んー?」
「鷲宮達は大丈夫かな」
春弥と、その幼馴染み。和雄はその幼馴染みらしい少年に何となく取っ付き難そうな印象を受けた。どう説明したらいいものか…感情の起伏が見られぬ、美しいだけの作り物とでもいうべきか。例えるなら繊細な硝子細工のような。…和雄の得意なタイプだとは言い難い。
本の頁を捲る音をともに、幹靖が肩を解すのが視野に入る。
「多分。あの岩崎とかいうのは鷲宮くんよりも図太そうな感じだったし大丈夫だと思うけどな」
「そう…か?」そんなタイプには見えなかった。
「…まあ、ひとまずペアになったことだし、そのへんは岩崎くんにお任せしようじゃないの」
彼は肩を解し切れなかったのか大きく伸びをし、それからくるりとこちらを振り向いた。頬杖をつき、ベッドに寝転がったままの和雄の背をぽすぽすと叩く。
「ほら、早く寝た寝た。そうじゃないと俺が先に寝ちゃうぞ。そしたらしばらく寝られないぞ」
「だって」
「心配しなくても何も無いよ。和雄の傍には俺がいてやるから」
何なら子守唄でも歌ってやろうかと笑う幹靖に和雄は背を向けて布団を被り直した。彼と自分はどうしてこんなに違うのだろう。昔からそうだ。小さくて単純で幼い自分。周囲はそれで離れていくのに、彼だけは見放しもせずにこうして隣にいてくれる。外見も中身も全く釣り合っていないのに。外見だけで言うなら、余程、春弥との組み合わせの方がしっくりくる。スマートだ。それが自分との組み合わせともなるとでこぼこにも程がある。和雄は布団の中、膝を抱えた。
幹靖のことは好きだ。だからこそ…不安だった。








きぃぃんと耳鳴りがした。
雫は寝息をたてて眠っている。見張りを交代して二時間。何もおかしな様子はない。だが、寝てる間に蚊に刺されでもしたのか腕が痒い。見ればぷっくりと膨らんでいる。けれど痕が蚊とは違うような気がして、ダニにでもやられたかなと春弥はかゆみ止めを塗ったくった。ぬらぬら光っている。
ふと窓の外を見て、街灯に集る虫達を眺める。寄ってたかってそれらは光に集まる。世界がずっと夜であるからそれらもずっとそこにいる。生命を狂わされて死ぬまでずっとそこにいる。その証拠に、街灯の下には干涸びたそれらが点々としている。可哀想だ、という感覚は春弥にはない。それらに痛みや苦しみというものを認識する知能はないのだから。それらが苦しんでいるように見えるのは、人としての感情を重ねて観察しているからであるし、生物としての役目を果たせずに終わるという不自然さからである。生物は子孫を残すために生きている。生物であるが故に機械的に。機械的にとても自然に。機械は合理性を求めて作り出される代物であるが、生物も合理性を求めて進化している。如何に効率よく、如何に優れた身体を、子孫を作り出すか。そうした無駄の無さは美しい。春弥は相変わらず美しいものが好きだ。だから無駄に飛び交う不適合なそれらは可哀想どころか醜いと感じる。無駄だらけの自分自身のように醜いと感じる。
「……?」
…ゆらりと街灯の下で何かが揺れた。よくよく眼を凝らしてみれば、それは蜃気楼のように透けている。人影だ。幹靖や和雄であれば一目散にベルを鳴らしてくるだろうから別の人間なのだろう。けれど本当に人間なのだろうか。この摩訶不思議な世界では人が透けて見えることも普通に有り得ることなのかもしれないが。雫の様子を確認する。少しくらい大丈夫だろう。春弥は部屋を飛び出し、階段を下りて、玄関のドアを開けた。生温くとろけた風圧を浴びる。人影は先程までと全く同じ位置にある。揺らめいているそれは薄らと微笑んでいるように見えた。
「おい…」
これは別世界へと消えてしまった人間の残像なのだろうか。春弥が右手を伸ばして触れようとすると、人影も右手を伸ばして春弥に触れようとした。…鏡?鏡であれば人影は左手を伸ばさないとおかしい。互いの姿形も全く似ておらず、遠目にも春弥の藍色混じりの髪と人影の柔らかい蜂蜜色の髪とでは錯覚しようにも無理がある。
邪気のない笑い声。耳鳴りとの不協和音に気分が悪くなる。
「……ってよ」
人影が揺らぐ。その指先が春弥の頬を掠めたかと思うと、電気の供給が断たれたかのように街灯が点滅した。消える。それまで存在していた光を失った虫達は戸惑いながらも飛び、散って行く。否、戸惑っているように見えるだけ…春弥は伸ばした手を戻し、握りしめた。

翌朝。春弥はテレビの電源を入れた。ワイドショー、ニュース。キャスターの姿はない。録音されていたかのように声だけ聞こえる。画面が映っているということはカメラマンはいるはず。だがカメラマンは何も言わない。もしかしたらいないのかもしれない…いかれている。どのチャンネルを回しても結果は同じ。アニメ番組だけは何事もなかったかのように垂れ流されている。ただしそれは再放送に限るようで、新作の時間帯は砂嵐が画面を覆う。惰性で動くものは動くし、途切れてしまっているものもある。ただどうにもこの世界は自然現象からしておかしくなりつつあるのでどこまでが正常を保っているのかは分からない。理屈なんてねじ曲がっているのかもしれない。夢のような世界、といえなくもない。されどこれは悪夢に等しい世界である。
「日本だけなのかな」
呟く。雫は黙ってシリアルを食べている。世界世界と言ったところで、これが日本だけの現象だということも有り得る。ネットで調べられないものだろうか。
「なあ岩崎…」
「……パソコンなら親父の部屋にある。好きに使え」
…彼はとても非協力的だ。何故なのだろう。彼とて早くこの世界から抜け出したいだろうに。
そう思ったのが顔に出ていたのだろうか、雫は春弥を睨みつけ、シリアルを咀嚼し終えてから口を開いた。
「…いくら島国であっても、この各国の情報が駄々漏れの時代に、この異変が報道されないと思うのか」
「けど」
「少なくとも昨夜の時点ではネット上において海外メディア並びに動画サイトは無反応。この異変に気付いた様子も無い」
むしろ……と雫は言いかけて口を閉じた。…彼の言わんとしたことが分かってしまって、春弥の胸の内を不穏なものが蝕む。おそらく、気付かないがための無反応どころか気付けない、気付く『者』すらいないような、と彼は言いたかったのだろう。投稿されなくなったブログサービス、掲示板。動画サイト。
「…どうしてなんだ?」
「…」
雫に聞いたところで、答えが返って来るはずもないことは分かっている。だがどうしても口に出さずにはいられなくて、視線を彷徨わせる。
「どうして誰もいない?どうして俺たちだけが残ってる?」
「……」
「本当は世界が別にあって、俺たちだけが取り残されたのか?本当の世界から消えたのは…他の住民じゃなくて俺たちかもしれないのか…なあ岩崎」
そして一つの疑問を噴出させると次々と言葉が口から溢れ出てくる。止めようと思っても止まらない。ヒステリックだ。これでは先日の岩崎と良い勝負だと頭の片隅で思考する能力は残っているのだけれど、手のひらは遠慮なくテーブルを叩き付ける。コップに入っていたミルクが零れた。それはあっという間に視界から消えて、腕は雫の襟元へと伸び白いシャツを鷲掴みにする。雫の瞳に先日春弥に対して見せた激昂の色はこれっぽっちもなく、彼は冷めた面持ちで春弥を見上げている。昨晩、春弥が取り乱したときも彼は冷静だった。…まるでこの世界の異変に怯えているのはお前だけだと言わんばかりの態度に、苛立ちを煽られる。春弥自身何故これほどまでに自分が動揺しているのか理解出来ずにいる。何故なのか、不意に感情の波が訪れて心を激しく掻き乱す。怯える。苛立つ。その繰り返し。自分で自分を制御出来ない。急激に膨張する感情に頭がついていかない。
嗚呼、窓の外の闇が深い。
「なあどうしてなんだ岩崎、岩崎」
「…お前は昔からそうだな。突然とち狂う、情緒不安定な子供だ」
「お前だって人のこと言えないくせに」
彼とて失明させたことを持ち出せば尖った一面を剥き出しにするだろうに。そう遠回しに指摘しても彼は眉をぴくりとも動かさない。相手が我を忘れて取り乱すほど、人は冷静さを取り戻すものだというが、彼の場合もそうなのだろうか。少なくとも、冷静さを保っている雫を見て春弥は苛ついている。逆も又然りということかもしれない。
襟元を掴んだ手を緩める。目の前にある端正な顔立ちに苛立ちがぶり返しそうになる。
彼の視力を奪ったことを申し訳なく思っているくせに、またしても同じ事を繰り返したがっている自分がいる。けれどその瞬間だけは、心はすうっと静寂を得る。人の感覚は一面だけでは成り立たない。感覚だけでない、感情も、理屈も。
「そうしてまた、この世界でも潰そうとするわけか」
心臓がぴきりと引き攣る。怯えが戻ってくる。彼を前に縮こまる。彼の姿が大きく映る。あの事件を境に彼と立場が逆転した。彼は春弥を嬲り、春弥はひたすら彼の吹き荒ぶ感情が落ち着くのを待つ。しかしそんな春弥の予想に反して、雫は春弥の手をゆっくりと振りほどき、再び椅子に腰掛けた。食べかけのシリアルにスプーンを沈める。だが雫は春弥の態度に何も感じていないわけではない。先程、春弥が心の奥に一筋の静謐を得たとき、雫の眼の奥底には仄かに揺らめく負の炎が見えたのだ。
春弥は膝が砕けたかのように椅子に崩れ落ちた。食欲などとうの昔に消え失せている。侵蝕している。何が?分からない、けれども俯いていたら、黒い煤が床を侵し出している。何故だろうか。この煤はそれほど嫌な感覚はしない。足下をさわさわと這い回っている。
「鷲宮、」
彼も気付いたようだ。と、同時にがしゃんと派手な音がして視界が飛んだ。反転した。天井が高速で視野上方を駆け上り、背中に強い衝撃。見上げれば近くに雫の顔。座っていた位置からはだいぶ離れてどこかぼんやりした頭で雫に突き飛ばされたのだと理解する。
煤はさわさわと近付いて来る。蟻の群れに似ている。それは戸惑うかのように足の手前で蠢いている。雫が眉を顰める。
「なんだ…?」
…不思議なことが一つある。今になっては一つなのか二つなのかあやふやなことではあるのだけれど、どうやら雫にはこの煤が見えているということである。教室でヘドロ状のものを見たとき、クラス内で他に気付いている様子の者はいなかった。それなのに雫は異常を感じ春弥に意見を求めて来たのだった。
何故クラスメートの眼には見えず、彼の眼には見えているのか。見えているからこそ、こうして此処に取り残されているのだろうか。
だとしたら、彼は自分と同類だ。
煤はすうっと床に溶け込んだ。カーペットには染み一つない。春弥はそれを見て、隣にいる雫を見て、笑った。笑えて仕方がなかった。








虚しいニュースを流したままのテレビ。
和雄はチャンネルを変える。変える。変える。面白いものはない。平日の昼間に未成年向けの放送などなされていない。
幹靖は誰かと電話で話している。誰かと言っても和雄を幹靖の他には春弥と雫しかいないのだからそのどちらかである。幹靖の慣れた口調からおそらく春弥だろう。
「…ああ、そうなの。ほんと鷲宮くんはしょうがないなァ」
電話の向こうでの春弥の嫌そうな顔が目に浮かぶ。けれど、その春弥と話していて楽しそうな幹靖の横顔は見ていて楽しいものではない。なんとなく、彼を取られたような気がしてしまう。そんなことを考えることは子供っぽいと分かっているのだけれど。
電話を終えて戻って来た幹靖に声を掛ける。
「鷲宮どうしたって?」
「うん…派手に転んで牛乳を岩崎くんに零したらしい」
ふと笑顔が薄まるのが嫌だ。彼は何か考え事をしている。和雄のことなど眼中にない。ニュース以上に面白くない。
「和雄、ちょっと話があるんだ」
「うん」
「昨日はその、分かれた方が情報収集もしやすかろうってので二人組でってことになったんだけど。せめて寝るときくらいは鷲宮達と合流した方が良いんじゃないかと思うんだ」
「どうして」
昨晩、彼は何かあったら危ないから念のため…と言って交代で見張りながら寝ることを提案してきた。確かにこの世界が不気味なことは認めるが、その何かとは何なのだろうと思った覚えがある。そこにきてこの春弥から電話は、和雄に小さな疑念を抱かせるには十分だった。
「何をそんなに警戒してるんだよ?みっちゃん」
「何をと聞かれたら、世界を、としか答えようがないかもなァ」
「本当にそうなのか?…俺が気絶してる間に何か…鷲宮達と話したんじゃないのか」
そう、何故か春弥達と再会直後、和雄は意識を失う事態に陥った。後で幹靖から聞いた話によれば、得体の知れない状況にプレッシャーがあったのではないかということだが、いくら和雄とてそこまで儚い精神は持ち合わせていないつもりだった。倒れたのは事実なのだから言い訳は出来ないのだけれど、幹靖は和雄の背丈の小ささに目を奪われて、貧弱だ、ナイーブだというイメージに囚われているのではないか。
幹靖は困った顔をしている。そんな顔をさせたいわけではないのだ。この自分ひとりだけが置いて行かれているかのような感覚を打ち消したいだけで。
「…追々話すよ」
「みっちゃんっ」
「和雄を除け者にしようとしているわけじゃあない。俺も半信半疑なことだから、まだ上手く説明してやれないんだ」
上手くなくてもいい、断片だけでもいいのに。
それから幹靖は制服を羽織り、自転車の鍵を尻のポケットに突っ込んだ。出掛けるつもりらしい。頭に学ランを被せられ、腕を引かれる。
「出掛けるぞ。家に籠ってちゃ分かるものも分からない」
「何処に?」
「特に当てはないから手当たり次第かな」
家を出て、彼に引かれるがままに自転車の後ろに乗せられる。誰もいない世界では、人の目を気にする必要もない。違反をしても注意されることもない。自転車のライトが鈍く輝き出して、和雄は夜の匂いを嗅いだ。空を見上げても、太陽は何処にもない。