第三夜.謝罪
「…いい加減放せよ」
雫に腕を振りほどかれた。
彼は未だに春弥を恨んでいるのだろうか。己の眼を潰されたのだ、恨まぬはずがない。先天性のものもそうだが、後天性の失明による衝撃や苦痛は並み大抵のものではないだろう。視力を失ったことのない春弥には心から理解することも共感することも敵わない。出来るのは苦痛を想像することのみである。
けれどその反面、こうして見えるようになったのだから事件は帳消しにしてもらっても良いのではないかという都合の良過ぎることを考える。だって見えているんだろう?それならば何の不自由もあるまい。そんなふうに考えてしまう自分を春弥は酷く醜い人間だと感じた。怪我が治れば何をしても良いだなどと、相手の当時の痛みや苦悩を蔑ろにしているとしか思えない。
「岩崎、その」
謝ろうとした。これ以上自分の醜さを突きつけられるのはごめんだと思った。彼に失明という重いハンデを背負わせてしまったとき以来感じて来た、良心の呵責を薄めてしまいたくなかった。自分が開き直ってしまう前に、彼に許してもらいたかった。彼と仲直りがしたかった。
馬鹿でごめん馬鹿でごめん本当に馬鹿でごめん。でも、と続けようとする心を捩じ伏せる。何が「でも」なものか。
春弥はごめん、と口にしようとした。うんざりだ。とても、卑怯だ。
だが。
「…ふざけるなよ」
「!」
不意に顳かみに強烈な痛み。春弥は尻餅をつき、無様な姿で雫を見上げた。空には月が浮かんでおり、彼の人形のように整った顔立ちを青白く照らし出している。雫は冷気すら漂い出しかねない鋭利な眼差しで春弥を見下していたかと思うと、その鳩尾につま先を深くめり込ませた。
「ぐ」
一瞬の間。息が止まり、吐き気が喉の奥から込み上げてきた。転げた拍子に眼鏡が落ちる。
「たかだが一言謝ったくらいで…許されるとでも思ってるのか?」
しゃがみこんだ雫に顎を押さえつけられる。口の中まで溢れてきたものが行き場を失くして気管を逆流し、吐けなかった苦しみで目尻に涙が滲んだ。口内一杯に独特の苦みが広がる。そして胃液が体内に舞い戻った頃を見計らって、再び雫の蹴りが入った。春弥は内容物をコンクリートの上に吐き散らす。彼はそれを冷ややかに見下ろしている。
「ぅぐえ、」
「なあ春弥…どうなんだ。人の眼を潰しておいて、謝れば済むと本気で思ってるのか」
「…ごめ」
「違うんだろ?もう見えているようだし、元通り…だなんて調子の良いことを考えたわけじゃないんだろう?」
彼は再びしゃがみこみ、春弥の頬を指先でなぞった。優しさすら感じられる触れ方とは裏腹に、その表情はひどく冷たい。春弥は身体を硬直させ、雫の指先を見つめた。近過ぎて焦点が合わない。近過ぎて…このまま眼を潰されるのではないかという恐怖に見舞われる。春弥は本能的にというべきか、反射的に飛び上がり、雫の細身の身体を突き飛ばした。彼は強かに地面に打ち付けられる。
「…」
雫は倒れたまま起き上がらない。もしかしたら打ち所が悪かったのかもしれない。地面はコンクリートでとても堅い。後頭部を打ちつけたら命にかかわる…かもしれない。…雫は動かない。青ざめる。春弥は恐る恐る立ち上がって眼鏡を拾いかけると、倒れ伏したままの雫に近付いた。まさかそんな簡単に人間が死ぬわけがない、と思いながらも、以前容易く彼の眼が潰れたことを思い出す。怖い。怖い。だが、いったい何が?彼が死ぬことが怖いのか、彼が死んで…このわけの分からなくなりつつある世界に一人取り残されることが怖いのか。
「…い、」
「春弥」
「!」
彼は横たわったまま、こちらを見上げていた。視線が交わる。心臓の鼓動が大きくなると同時に雫に胸許を掴まれる。春弥が堪え切れず膝を折ると、彼の顔がすぐ近くにあった。…悪寒がするほど彼は美しかった。潰してしまいたくなるほど、その瞳は透きとおっていた。春弥は彼ほど人間らしくない人間をこれまでに見たことがなかった。
「…お前の眼も同じように使い物にならなくなればいいのに」
「いわ、さき」
「そうすればこの非現実的な世界を見なくても済むぞ。お前の好きな現実逃避もしていられる」
確かにこの現実を受け止めるよりは、空想で思い描いた世界の方が良いに決まっている。彼の指摘された通り、もともと現実から遠ざかりたいという気持ちは心の何処かにあったのだ。何もかも上手くいかず、此処にいるのが自分自身でなくてもいいような気持ちに苛まれていたから。
誰かに認められなければ、一番に思ってもらえなければ、自分の存在している意味すら見出せない。息苦しく感じたのは、自分の居場所がなかったからだ。自分の立ち位置、存在の空虚さに喘いでいたのだ。
誰かに認めてもらいたかった。
「春弥」
だから苛立った。だから煩わしいと思った。
「俺はお前が一番嫌いだ」
だから…彼の言葉をひどく嬉しく感じた。阿呆としか思えぬ顔で彼を見つめた。彼は春弥に対する興味を失ったかのようにするりと手を放した。
…がさりと草を掻き分けるような音。はっと顔を上げれば、見慣れた顔が二つ茂みの奥にあった。
「和雄、幹靖…!」
幻想の世界から現実へと引き戻されたかのような感覚だった。大きく手を振りながら和雄と幹靖がこちらへ走って来る。
あれほど毛嫌いしていたにも関わらず、見知った顔があるというだけで春弥はいたく安堵した。と、同時に、先程までの非現実的な世界がまるで儚い夢であったかのような錯覚に囚われる。そしてその錯覚は春弥に奇妙な感慨を抱かせる。…だが錯覚は所詮錯覚に過ぎない。でなければ、雫がこうして横にいる理由がないし、二人と此処で遭遇する道理もない。行動の軌跡が既に異常を証明しているのだ。
肩で息をしている和雄。幹靖はいい加減な表情の中にも不安のようなものを見え隠れさせている。
「鷲宮…良かった。此処に来るまで他には誰もいないんで、マジ不安になってたところだ」
そう、彼らから見てもこの世界は誰もいなかった。改めて客観的に事実を突きつけられて春弥は息を潜めた。取り乱してもどうにもならないし、幹靖の前で取り乱すのは嫌だった。努めて平静な態度を装う。
「ああ…信じられないけど、いまこの町には俺たちの他には誰もいないみたいだ…」
「それって、どういうことなんだよ」と、和雄。
「分からない。全員が家に中に閉じこもっている可能性もないわけじゃないけど、そんなことして何のメリットもないし普通じゃない」
最悪住民がいるのかいないのかは家の中に忍び込んでみれば分かることだ。嫌でも。和雄は幹靖の服の袖を掴んだまま俯いてしまった。春弥は幹靖に視線を向けた…敢えて雫を見ないようにしている自覚はあった。
「幹靖…は他に何かおかしいと思ったことはないか?今日じゃなくてもいい…特にここ最近」
「さあ…特には何も気付かなかったけどな。お前は?」
「俺は信じてもらえるかは分からないけど、なんとなくおかしいって思ったよ。昼なのに外が夜に見えたんだ」
いつになく幹靖と真面目な顔して話していられるのは、お互い通常とは異なる世界の雰囲気に呑まれているからか。てっきり幹靖もこちらの発言を笑って一蹴するかと思いきや、黙り込んで考え込むような顔をした。雫の眼のこともそうだが、幹靖が神妙な顔をしていると落ち着かない。この中でいつも通りなのは、どうやら春弥自身と和雄くらいなものらしい。和雄は現状を受け止められずにいるのか、怯えて小柄な身体がより小さくなっている。
「これが誰かの夢だってんなら事は平和に解決しそうなんだけどな、違うんだろ鷲宮」と、幹靖。
「もし誰かの夢だっていうのなら、いったい誰の夢なんだ?」
「案外お前の夢かもよ、鷲宮くん。少なくとも俺よりはこの世界の情報量が多いわけだからな」
「ふざけるなよ幹靖」
真面目に考え込んでいたかと思えばすぐこれだ。うっとおしく思って咎めると、意外にも幹靖はすぐに折れた。「ああ、悪い」…気持ち悪い。
「ところでそちらはどちらさんかな?」
彼の視線は雫へと向けられる。一気に現実が非現実へと傾く。本当に…何故なんだ、岩崎。春弥は頭を抱えたくなる。
「俺の幼馴染みだよ」
「名前は?」
「なんで」
「だって知らないと不便だろ?残された人間同士」
幹靖は軽い口調で春弥のささやかな抵抗を封じ込める。その遣り取りを見ていた雫は口を開く。
「岩崎雫」その瞳に、先程までの攻撃的な色合いは見受けられない。
「俺はあけだ…緋田幹靖。それであっちは秋草和雄。まあよろしくしてやってくれよ」
そういえばそんな名前だったような気もする。一度は聞いたような気もするし、出欠確認のたびに呼ばれていたかもしれないが、春弥の記憶にはない。
「けど、鷲宮…どうにも分からないんだけどな、いまこの町にはどうやら俺たち以外の住民はいないようだ、そして太陽が昇らないのか夜が明けない。で…それ以外に何か問題はあるのか?」
「…」
奇妙な黒いヘドロが漏れ出して人を襲う。だがそう言ったところで、幹靖と和雄は信じるだろうか。あまりにも胡散臭過ぎる。春弥が言われた側だったら自分の眼で見るまでは信じないだろう。
幹靖は震えっぱなしの和雄の背中を撫でて宥めている。和雄の前でそんなことを言えば、彼はショックのあまり昇天しかねない。斜め後ろに立っているらしい雫は、春弥がそのことを言い出すのかどうか待っているように思える。迂闊な行動をすれば彼に更に蔑まれる。今更かもしれないが、彼に軽蔑されるのは辛かった。
「鷲宮…」と雫。冷静さは取り戻しているようだが、その呼びかけの後の沈黙に無言の圧力を感じる。
ちらりと視線を送れば、彼は何かを汲み取ったかのように動いた。背後から和雄の首を打つ。
「和雄…!」
叫んだのは幹靖だ。和雄は雫の一撃でくらりと幹靖へと倒れかかった。よろしくしてくれと頼まれたのち、ものの数秒で相手を気絶させるのもどうかと思う。案の定幹靖は雫に抗議するかのような視線を向けた。
「岩崎?お前…」
「秋草には聞かれたくない話がある」
雫は雫なりに、話を聞いた際に想定される和雄へのダメージを考慮したということだろうか。幹靖は一瞬沈黙し、和雄の身体をそっと地面に横たえさせた。二人が対峙する。そしてやはり雫の存在は現実にはそぐわない、と思う。
「この世界には得体の知れない生物が存在するらしい。そしてそれは人を襲う」
幹靖のような奴には最も認め難い存在かもしれない。だがこの状況下において、雫がそんな冗談を吐く理由はない。
「…マジかよ」
「…ああ」
「つまりは、この世界にいる限りはその生物から自分の身を守らなくちゃいけないってことなんだろ」
雫は頷く。幹靖は険しい表情をしていたが、無理もない。昨日まではただの一高校生でしかなかったというのに、今日になって突然謎の生物から狙われるようになるなどと、到底信じ難いことだ。その上、逃れようもない現実であるなら尚更。
「…確かにそれは和雄の耳には入れたくないことかもな。こいつショックでぶっ倒れるかもしれない」
「でもいつかは気付くだろうな」と、春弥。
「そのときはそのときだ。でも、此処が現実だとしても夢だとしても、物事には何らかの原因や切っ掛けが付き物なわけだろ?」
要するに幹靖は、この世界が変化した原因を探り出せば元の世界に戻れると言いたいわけだ。ただそれは不可逆的な展開に陥ってなければの話だ。世界が手を施しても修正が不可能なほど壊滅的に壊れていたならば、元には戻せない。果たして現状はどの程度進行してしまっているのか、春弥達には判断のしようがない。
「それにしても、原因ねえ…」
幹靖が零す。こればかりは心中を推し量るまでもなく同意見だ。全く見当もつかない。
その後話し合いの結果、以後行動するときは二人一組で動くという結論が出された。
話の主導権は幹靖が握っていたのだが、当然のように春弥は雫と組まされた。嬉しくないわけではないが、息苦しい。案内された雫の部屋にはあまり物がなかった。それは…眼が見えないが故に、物を壊さぬようにと考慮されてのことなのだろう。そう思うとよりいっそう息苦しさが増した。
「岩崎」
「…」
「どうしても…謝らせてはくれないのか」
「お前の謝罪なんて反吐が出る」
ひどい言い草だと思いながら、それが事実であるとも思う。ベッドに寝転がり布団に包まっている雫の背を眺めながら、春弥は溜め息をつく。仲直りをしたいのは自分の行為を忘却したいから、だけではない。幼い頃より何故かきれいなものが好きだった。その影響もあるのだろうが、春弥は雫と純粋に再び友情という薄ら寒いものを育みたいのだ。そもそも昔とて春弥が一方的に彼を苛め抜いていたわけだから、再びという言い方はおかしいのかもしれないが。
春弥自身、何故自分がこうも彼に惹かれるのか不思議には思う。息苦しいが、彼といると嬉しいし落ち着く。自分でも意味が分からないと思う。ましてや春弥がいくら雫に惹かれようと、雫は彼を毛嫌いしているのである。報われず、なんと悲しい現実か。
「岩崎、シャワー借りてもいいかな」
「好きにしろ」
それにしても、世界が異常をきたしているというのにこの状況は平和過ぎやしないだろうか。確かに食料なども当分尽きる予定はないし、差し迫って困った事態が生じているわけでもない。けれど町の住民は勿論のこと、自分達の家族もいなくなっているわけで、普通なら心穏やかではいられないはずなのだ。喉元過ぎれば暑さ忘れるというべきか、得体の知れない生物に対する恐怖心も良くも悪くも薄れてきている。鈍感なのか、それともまだ日も経っていないから上手く現実を処理出来ていないだけなのか。
シャワーを浴びて戻ると、雫は先程までと同じ体勢で寝転がり、雑誌を読み耽っていた。
「…岩崎」
「なんだ」
「お前…字、読めるのか?」何十年も目にしていないと忘れそうなものだが。
「親に散々書かされたから、文字の形くらい知ってる」
「ああ…」
それは別にこの世界で身に付けた特殊能力とかではないのだな、と春弥は一人納得する。眼が見えるようになったくらいなので、何でも有りなのかとも思ってしまっていた。雫はぱたんと雑誌を閉じ、こちらを見た。…未だに、慣れない。
「…もう寝るか?」
「え?」
時計の針を見れば午後十一時。寝てもおかしくはない時間帯だったが。雫は言葉を続ける。
「それとも…一人が見張って起きていた方が無難か」
不安に胸がざわつく。彼の言葉はこの世界はそういう世界なのだと改めて思い起こさせる。油断することが命取りとなりかねない世界。
鈍かった感覚が働き出す。死は嫌だ。死と隣り合わせの生活も嫌だ。春弥は雫の顔色を窺った。彼は…平気なのだろうか。彼は死のプレッシャーに負けたりしないのだろうか。こうして恐れおののいているのは自分だけなのだろうか。
「岩崎」怖い。
「…なんだよ」
「岩崎、」怖い。
「だから、」
「駄目、なんだ。俺は…馬鹿みたいに怖い」
先程まで何も感じていなかったにも関わらず、心がひいひい訴え出す。恐怖。情けない。なんて醜くて情けない人間なんだろうと思う。心臓の芯から震えが全身に伝わって、止まらない。こんなことでは雫にまた呆れられてしまう。軽蔑されてしまう。
「…鷲宮」
雫は…思い切り不機嫌そうな顔をしていた。それから、春弥の腕を引き寄せた。春弥は勢い余ってシングル用の狭いベッドに突っ伏す。その体勢のまま、上から布団を被せかけられた。頭上から彼の声が聞こえてくる。
「見苦しい。此処で見張っててやるからさっさと寝ろ」
「岩崎、」
「煩い」
眼鏡かけたままだと肌に食い込んで痛いのだけど…。
けれどもどうにも言い出しかねて、春弥は若干布団の圧迫による息苦しさを感じたまま眼を閉じた。彼が隣にいると思うだけで心は平静さを取り戻していて、いっそこのまま眼が覚めなければいいとまたしても逃避じみたことを考えてしまう。