第二夜.硝子玉










初めはそれこそ寝過ぎで太陽が一回りしてしまったのかとも思ったが、目覚まし時計を見るとAM7:00となっている。春弥は布団を押しのけて、窓の外をもう一度凝視した。朝なのに真っ暗な世界。まるで夜だ…ではなくきっと夜なのだろう。時計が壊れているのかもしれない。だとしたら一日学校を休んでしまったことになる。春弥は携帯に手を伸ばした。はは、と声に出して笑いたくなる。どうやら携帯も壊れてしまっている。余程部屋の電波の状態が悪いのか。こんなに暗くて、朝なわけがないだろうに。そして学校を休んでしまったにも関わらず、幹靖や和雄からのメールは一通も来ていない。どうしたことか。幹靖のことだから、文句の一つでも書いて送って来ると思ったのだが。
ひとまず顔でも洗おうと起き上がる。寝過ぎたのか、頭がずきずきと痛む。階段を下りてみると、不穏な、何かを感じた。…何か。
夜の七時だというのに全員が食卓に顔を覗かせている。仕事はどうしたのだろう。残業がなかったのか。
けれど顔を一歩足を踏み入れた瞬間、母親が「おはよう」と言った。…おはよう。意味もなく返してから、異変に気付く。おはよう?庭を見る。暗い。暗い。街灯まで点いているではないか。この状況でおはようなどとからかわれているのだろうか。それとも今頃になって起きるなんてという遠回しな皮肉なのだろうか。表情を見る限りそのような悪意は感じ取れなかった。春弥は椅子に腰掛け、テーブルの上に並べられた食事を見る。…ハムエッグ、トースト。サラダ。典型的な朝食。父親は「お、そろそろ時間だな」と立ち上がる。時計の針は七時二十分。父親が毎朝同じ台詞を吐いて出掛ける時間。
…やはりこの町では日蝕が珍しくないのだろうか。誰も驚いていないし話題にすら出されない。ニュースも朝の番組である。沖縄に台風が来ているとか毎年お馴染みのことを言っている。きっと父親も母親も春弥が幼い頃にこの町に住んでいたからもう慣れっこになっているのだろう。そう思ってしまえば何らおかしくはなかった。春弥は父親を倣っていつも通りの時間に家を出た。
「あっるぇー、パン買い忘れちまった。頼むよ鷲宮くん、買って来てくれよ」
「みっちゃん自分で買ってくれば良いだろ」
学校では相変わらず幹靖がうっとおしかった。和雄は困った顔で幹靖に注意するが、結局なあなあである。和雄は幹靖に甘い。春弥が無視して弁当を食べ続けると、幹靖は机の下で春弥の足を蹴飛ばす。やり返すのも煩わしくて黙って足を引かせれば、追い打ちをかける。面倒な人間である。そして外は相変わらず暗い。今日の日蝕は随分長いのだなと春弥は思う。夜中に学校にいるようで、弁当を食べていても授業を受けていても睡魔がいつもにも増して襲ってくる。街灯の周囲には光を好む虫達が飛び交っている。
「…あ…?」
「なんだよ鷲宮くん、好きな女子でもいたのかよ」
違う。街灯の下から…何か”すす”のようなものが漏れ出している。錯覚かと思い目を擦ってもそれは消えずにどんどん溢れ出している。まるで生き物のように蠢いて、……近隣を通りかかった女子生徒を飲み込んだ!…思わず立ち上がって、幹靖の冷やかしの声が聞こえてももう耳には入らなかった。暗い世界はよくある現象で片付けられても、今見た状況はそれで受け流していいものなのか。黒いすすが女子生徒を頭から奇麗に消し去る。それが日常の風景なのだろうか。だとしても…消えた女子生徒は何処へ行ったのだ。
「和雄」幹靖では話にならない。
「?どうしかした?、鷲宮」
「人が消えるのはよくあることか?」
幹靖が口を開く。
「なんだよ鷲宮くん、漫画の読み過ぎじゃないのお?頭大丈夫か?」
「どうなんだ、和雄」幹靖は放っておく。
「ああ…うん、そんなに珍しいことじゃないだろ?いまどき」和雄は言う。
春弥は椅子に腰を下ろし、弁当の蓋を閉めた。和雄の言葉に無理矢理納得はしたのだが、一気に食欲が失せた。机に上を枕に突っ伏して先程見た光景を思い出す。人が消えるのがよくあること。けれどあれはそういう種類のことではないような気がする。日蝕じみたことが普通にあって、もはや普通の感覚が狂いかけているが、あれはおそらく普通のことではない。人が消えて何事もなく済まされるのは決して普通のことではない。あの漏れ出した黒いすすも、…有り得ない。いくら視野が狭いとはいえ、春弥は人並みの常識は持っているつもりである。もういっそこれが夢で、目覚ましが鳴る五分前とかであったならば何の問題もないのだが。
眼は覚めてくれなかった。

おかしな出来事はそれだけではなかった。
「あ」
授業中、退屈さを欠伸で紛らわせていたとき、突然教師の身体が黒いヘドロに飲まれた。黒板に書かれた文字を説明する声だけが、何事もなかったかのようにヘドロの塊から聞こえて来る。ヘドロは教師の心臓の動きを真似たかのように波打っている。…周囲の生徒達は何も言わない。寝ている者もいれば、律儀に手を挙げて質問している者までいる。質問に対する返答は普通に黒い塊の内側から聞こえる。異常なる正常。春弥に理解は及ばない。誰も騒がない。
「なあ和雄…」
「んー?」
「先生っていつもあんな感じなのか」あんな黒いヘドロにまとわりつかれた。
和雄は眠そうに眼を瞬かせて教師を見てから「うん」と頷いた。和雄は嘘はつかないが、どうにも…信じ難い光景である。ヘドロの中には何匹もの虫が混じっていて、まじまじと眺めていると吐き気さえ込み上げて来る。おまけにどぶ川のような匂いがする。鼻を摘んでも鼻孔の隙間から忍び込んで来る。
「どうしたんだよ、鷲宮。そんな鼻なんか摘んじゃって」
「いや…だって、臭くないか」
「うん?…そういえば臭いかなあ。先生もしょうがないよなあ」
…和雄との会話は噛み合っているのだが、その実噛み合っていないことに春弥は薄々気付き始めていた。聞くだけ無駄かもしれな…否、現状における他者の反応を見るという意味では有効かもしれないが、基本同意を求めるのは無駄かもしれない。
外は変わらず暗い。完全に昼夜逆転しているようで、葉のついた木が夜の冷ややかな風に煽られて乱れ泳いでいる。涼しげに不愉快だった。

帰り道。和雄と面倒な幹靖とにかまっていたら遅くなってしまった。
とはいえ、外は相変わらず暗いままなのであまり遅くなった実感はない。これでは洗濯物も乾かないだろうと呑気なことを考える。けれど内心、ひやひやしていた。昼間見た…昼間と云う表現が正しければ…女子生徒と教師を飲み込んだ何かがいつ自分にも襲いかかって来るか分からないからである。他人事だと割り切るには実態が掴めなさ過ぎる。ニュースで見るような殺人事件とは感覚が異なるのだ。
「…あ」
二度あることは三度あるというべきか、遅くなってしまった春弥が悪いのか、またしても家の前で雫と鉢合わせしてしまった。だが”奇妙にも"、春弥は雫と眼が合ったと思った。
「……鷲宮」
そして彼は数年振りに春弥の名を呼んだのだ。けれどその声色は気心を許したというものとはほど遠く、ぴりぴりと張りつめたものさえ感じさせた。彼は真っ直ぐに春弥の方まで歩いて来て、春弥の眼をじっと見つめてこう言った。
「…この世界は現実なのか?」
と。他の者が聞いたならば、春弥は一笑に付していただろう。だが、笑えなかった。有り得なかった…ありえなかった、雫はじっと春弥の眼を見据えている。彼は数年前の事件以来、”眼が見えないはずなのに”。
「い、わさき」
「…何も知らないなら別にいい」
彼は春弥に背を向けんとする。その腕を掴んで疑問をぶつけてしまうのは簡単だった。しかし、出来なかった。
彼の眼が見える。それは春弥の犯した過去が中途半端に抉り取られてしまったかのようで、また、現実がやはりおかしくなっていると思い知らされるようで、ひどく気分が悪かった。






幼い頃、とてもきれいなものが好きだった。
初めて雫と出会った時も、春弥は彼が人形のようだと思いすぐに気に入った。
彼はとても無邪気で素直で、虫も殺さぬような子供だった。逆に、春弥は虫がきれいでとても好きだったから、よく殺した。足を一本ずつもぎ取っていったり羽を千切り取ったり、中身を掻き出したりした。雫はそれを怯えたような眼で見ていた。そう、眼で。
時には虫が可哀想だと言うこともあった。だけれど手のひらに収まる小さな虫はとても精密に出来ていて、春弥にとってお気に入りの玩具だった。
「ほら、雫もやってみなよ」
唆した。彼と楽しみを共有したいと云う気持ちと、彼が縮こまって拒絶する、震える姿を見ていること自体が楽しいと云う意地の悪い気持ち。その手を引いて、手のひらの中にバッタを乗せる。雫はそれを逃がそうとする。春弥は彼の拳ごとそれを握りつぶす。幼い悲鳴と潰れた音が合わさって春弥は無性に笑いたくなる。彼が泣くと笑いたくなる。幼い幼い子供だったから、笑いたくなった。言い訳。
「あーあ、もったいない」笑った。他愛のない悪戯。少なくとも春弥にとっては楽しい遊び。一方的な遊び。
雫は春弥の笑い声に反比例するかのように泣いて泣いて、遊ぶたびにいつも泣いて。泣かせて。よくも涙が涸れないものだと子供心に思った覚えがある。泣いても雫はきれいだった。他の子供が泣くように醜くはなかった。だから飽きずに毎日遊んだ。虫のように、春弥にとって雫は人形で玩具だったのだ。

お気に入りの玩具。
きれいなきれいなお人形。

けれどそんなある日、彼は春弥と顔を会わせるなり泣いていた。
他の誰かに泣かされたのかと春弥は憤り、拳を震わせた。彼は自分の玩具なのに、他の誰かに遊ばせるなんて屈辱以外の何物でもなかった。…そう、それは屈辱だったのである。生まれて初めて感じた強烈な屈辱。
「誰にやられたんだよ」
両肩を揺さぶる。子供だから手加減は出来なくて彼の細い身体はぐらぐら揺れた。彼は首を振った。癇癪が爆発して、思い切りその頬を叩いた。瞬く間に白くて柔らかな頬が晴れ上がって、春弥は押しつぶして零れた虫の卵を思い出した。透明で瑞々しい。虫は痙攣した。雫はぴたりと表情を強張らせた。見開かれた瞳から大粒の涙が音もなく零れ落ちる。
春弥は、その瞳がとてもきれいだと思った。ビー玉のようだと思った。

だから、








彼の眼が見えるなら、もう負い目を感じる必要などないはずだ。
都合の良過ぎる思考。眼が見えるようになったとしても、自分が彼の眼を奪ったことに違いはないはずなのに。
春弥はベッドを転がると、何気なく目覚まし時計を見遣った。午後八時十七分。外は暗い。一日中、ずっと暗い夜のまま。…そういえば、母親がまだ帰って来ない。大体いつも八時を過ぎる頃には帰って来るはずなのだが。異様な出来事にばかり遭遇して、僅かな違いにも不安を覚える。もしかしたら、人が消えること飲み込まれることに誰しもが気付いていないように、この世界がずっと夜だという状況に誰も気がついていないのかもしれない。誰も、…誰も……岩崎!
『この世界は現実なのか』と彼は言った。彼はもしかしたら春弥と同じようにこの異常に気付いているのかもしれない。
携帯を取り出し、雫の家の固定電話の番号をダイヤルし…かけて、指を止めた。
…果たして雫の両親は彼に電話を繋いでくれるだろうか。雫の両親は事件をなかったこととして受け止めてはくれたものの、やはり積極的な交友は望んでいないだろう。けれども、雫の携帯の番号は知らないので他に彼と繋がる術がない。直接待ち伏せしようにも、彼の外出時間が分からない。
「岩崎…」
不安だった。だが、それよりもこの世界の異常を一人で感じていることの方が不安だった。おかしいのならおかしいと、誰かと認識を共有したい。ボタンを押し、呼び出し音。



……

…………妙に静かだ。この家がなのか、向かいの家がなのかは分からないが、奇妙な静けさが周囲を取り囲んでいた。あちらの家は…留守なのだろうか。確か働いているのは父親だけで、母親はずっと家にいるとばかり思っていたのだが。
「!…」
ぷつんと電話が繋がる音。
思わず息を飲めば、受話器の向こうから声が聞こえて来た。

『…誰だ?』

電話の出方としては相当問題のある出方である。
それでも彼が直接電話に出たことが嬉しくなって、携帯を強く握りしめた。
「…岩崎?」
『…悪戯なら、』
切るぞ、と言われかけ、春弥は声を張り上げた。
「待ってくれ!さっき、さっきお前が言ったことについて話があるんだ!」
『……』
返事はないが、電話は繋がっている。一息吸って、春弥は話し出そうとした。
そのとき、

「…――――ッ!」

背中に何か冷たく湿ったものが張り付いた。引き攣った声が漏れそうになる。
『…鷲宮?』
恐る恐る右手を伸ばせば、ぬぷんとした音とともに手首から先が柔らかい粘土のような何かに飲み込まれた。抜けない。
『おい、悪戯なら切るとさっき…』
「抜けないんだ。…何かが背中に張り付いてて、腕も飲み込まれて、取れない」
『……っ』
…電話が切れた。冗談が過ぎる、と逆上されてしまったのだろうか。それとも昔の鬱憤を晴らそうと、現状を理解した上で見捨てられてしまったのだろうか。…背中が重い。脇腹をどろりとした何かが伝う。これが教師を飲み込んだヘドロと同質のものなら、あの教師とて異常に気づかぬはずはなかっただろうに。
重みに任せるまま、ベッドにどさりと横になる。重い。重い。ヘドロをつなぎにベッドと一体化しそうだ。ヘドロの中には透き通った虫の死骸が見える。カマドウマや、季節外れのアカトンボまで多種多様な死骸達。色も抜け落ちてまるで時間の経った液浸標本のようだ。
ひどく、眠い。
…このまま眠って目覚めたら全て元通り、夢でしたというオチなら良いのに、と思う。今日だったか昨日だったかも同じようなことを考えたような気がして、時間の感覚がおかしくなりかけていることを痛感する。

「鷲宮!」

首を動かす。ヘドロから分泌された水で湿った前髪が張り付いて邪魔だった。けれど雫が手を伸ばすと、ヘドロは簡単に春弥の身体から剥がれた。床をのたうち、跡形もなく消える。雫は唖然としたかのように己の手のひらを見つめている。信じられないが、物質としての感触が手に残っているのだろう。
「…鷲宮、今のは何だ」
「わからない、ただいきなり」
「…いま、お前の家には誰もいなかったな」
話の切り替えが急だ。それとも頭が働いていないだけなのか、春弥は雫を見上げた。さらりとした前髪の下に、意思の強い瞳が見え隠れしている。どう考えても、”見えている”。春弥は急激にそれがとてつもなく恐ろしく思えた。
「岩崎、ひとつ聞きたい」
「その前に俺の疑問に答えろ」
「…確かにおふくろも親父もまだ帰って来てない。けどそれが…」
「いまこの世界に人はいない…俺ら以外は」
「…は……?」
それこそ何処の漫画やゲームの世界だろう。だが雫は冗談を言う性格ではないし、つい先程春弥の身に起きた出来事も、否、日蝕が起こった日から全ての日常が非現実的ではあった。春弥は身体を起こし、窓のカーテンを開けた。真っ暗闇で空には星一つない。…周囲の住宅の窓も全て暗く、人の気配は微塵も感じ取れなかった。本当に、誰もいないのか。
「けど、そんなことが…」
「…」雫の、視線。
「…ちょっと、出よう。岩崎」
居てもたってもいられず、雫の腕を掴む。そのまま彼の抗議の声も聞かず階段を駆け下りて、家から飛び出して走り出した。夜の冷えた風が頬を切る。街灯の周りには相変わらず昆虫達が飛び交っている。

この世界に自分たち以外いないなんて、冗談にも程がある、と今すぐにでも笑い飛ばしてしまいたかった。携帯で電話をかければ通じるし、メールをすれば返事が返って来るのだと言い張りたかった。いっそのこと110番してしまおう、出たら悪戯でしたと笑えば良い。そうしよう。そう言ってしまいたかったのに口が動かなかった。走っても走っても明かりの灯った家が一つもないことに気付かされて、無駄に呼吸が乱れた。ただの停電にしては、路上に人っ子が一人もいないのは不自然だった。不自然だった。全てが。
学校が見えて来た。門を飛び越え、裏側に回り込む。学校からは市内の家々が見下ろせた。フェンスが軋む。
…住宅街に明かりは一つもなかった。ほんの僅かな街灯の明かりだけが道路上に沿って点々としている。
「そんな、馬鹿な…」
それでもまだ、停電しているだけなのだと自分に言い聞かせようとして、雫の手を掴んだままだったことを思い出す。生白く、細い腕。振り返り、彼の顔を視界に捉える。人形のように色素も薄く整った顔立ち。春弥自身を映し出した瞳。春弥が何よりも、信じられないこと。有り得てはならないこと。
雫が口を開く。現在の状況を信じられぬ春弥に、無慈悲な宣告を突きつけるかのように。

「世界が狂っていないなら、どうしてお前の顔を見ることが出来るんだろうな」

彼の瞳はビー玉のように澄んでいる。
――だからその眼を、この指で潰したはずだったのに。