第一夜.反転








初め、日蝕が起きたのかと鷲宮春弥は思った。
けれど彼は大抵の日本人のように実際には日蝕など見たことがなかったので、ただ単純に突如変質した世界の形相と脳内のそれらしい知識とを擦り合わせただけである。何故なのか、世界が不意に暗転している。いくら雲が太陽を覆い隠したところでここまで暗くなることはないだろうと春弥はどこかぼんやりとした面持ちで思った。
ところが周囲の人々を見渡してみれば彼らは急激な世界の暗転など気にした様子もなく授業を黙々と受けている。曲がりなりにも化学の授業なのだから、教師も窓で遮断された外界の状況に関して一言くらい説明しても良いだろうに。それともこの春弥が引っ越して来たこの町ではこれが普通の現象なのだろうか。彼は幼い頃ここに住んでいたが、そんなことはなかったように思える。小さい頃の記憶が当てにならないとはいえ、怪現象くらい覚えているものだろう。
「かずお、和雄」
隣の席の友人の肩をつつく。和雄はこの高校に入学して初めて出来た友人だった。彼はノートも取らずに涎を垂らしながら寝ている。教師は気付いても起こそうとはしない。授業中に生徒が寝ているのは珍しいことではないからだ。緩く弛んだ空気。真面目に授業を受けているのは前の方にいる生徒だけではないだろうか。春弥の席は一番後ろであるから当然その真面目組には含まれない。彼も外の様子を気にしているくらいだから授業など真面目に聞いてはいないのだ。
和雄はすぐに起きた。授業中の眠りは妨げられることを想定してなされている。
「な、なんだよ鷲宮」
「外。これってよくある現象なのか?」
「外?…なんだ、なんか飛んでるのか?」
「…なんかって」
寝起きだからなのか、それともこの町ではやはり頻繁にある状況なのか、和雄の反応は素っ気ないものだった。そのあまりに薄い反応にもう一度窓から外を見遣れば、青空をカラスの集団が飛んで行くところだった。…青空?春弥は目を瞬かせる。
日蝕(仮)はどうやら和雄を起こしている間に終了してしまったらしい。夜のようだった外はいつのまにか昼の明るさを取り戻している。快晴だ。和雄の方を振り返れば彼は再び寝る体勢に入っているし、やはり今のは普通の現象だったのだろう。

授業が終わって和雄は幹靖と雑談している。二人は同じ中学だったと聞いたことがある。嫉妬じみた感情は抱かないが、二人の間には妙な連帯感があるような気がしてならない。特に幹靖は物事を斜めに捉えることが格好良いと思い込んでいる幼い部分があるのか、いまいち反りが合わない所為もある。反面、和雄は単純で時々心配になるほど良い奴で話していてそれほど気負ったりもしないのだけれど。
「なんだよ、鷲宮。もう帰んのかよ」
絡んで来たのは幹靖だ。幹靖も何か通じるものでもあるのか、春弥に対しあまり良い感情を覚えていないようである。一応表には出さないようには努めているつもりなのだが、相手には分かってしまうものらしい。一種の負の連鎖だ。彼はわざとらしく春弥の肩に腕を回すと、気色悪く微笑んだ。平和主義な和雄を前に穏便な間柄をアピールしたいらしい。ゲイではないが幹靖は和雄を気に入っている。
「いま和雄とゲーセン行こうって話してたんだよ。鷲宮も行くだろ?」
「悪いけど今日は金ないんだよ、またな」
「金がなきゃ俺が貸してやるよ、な?」
「夜からバイトだから」
春弥は幹靖の手を出来るだけ自然に振りほどいて教室のドアに手を掛けた。背後からは幹靖の「鷲宮は付き合いわりいなあ」という、これまたわざとらしい呟きが聞こえて来る。それを無視して教室を出ると、すっと息が楽になった。幹靖とは何事もなく済ませられればいいが、いつかは衝突しそうな気がしている。もしそのときになったら春弥自身我慢はしないような気がしている。これだけ我慢したのだからもう良いだろう、と遠慮なく幹靖の顔面に拳をめり込ませてしまいそうだ。物事はすべて切っ掛けというものがあるから、要はそれが無ければ良いだけの話ではある。

自転車を漕いで家まで帰宅すると、向かい側の家の玄関に、杖を片手に持った人影を見つけて春弥は立ち止まった。
「…岩崎」
「!……」
岩崎雫。彼は春弥がかつて此処に住んでいたときの幼馴染みである。聞いた話によると現在は高校には通わず特別な家庭教師をつけて自宅学習しているらしい。別段彼の家にお金がなかっただとか、不登校だとかそういうわけではない。ただ彼は。
雫は春弥の声に反応するなり辿々しい足取りで家の中に入ってしまった。明らかな拒絶。
無理もない、と春弥は浅い息を吐き出しながら玄関のドアを開けた。親は共働きでまだ帰って来てはいないから、当然家の電気はまだ点いていなかった。階段を上り二階の自分の部屋の電気をつけて鞄を床に転がすと、向かい側の家の二階の電気も点いたのが見えて、雫の部屋も二階にあったことを思い出した。昔はよくお互いの家に上がりこんで遊んだものだった。何がそんなに楽しかったのか、ミニ四駆やらビーダマンやら買っては対戦して時折度が過ぎるほど煩くして親に怒られたりした。今となってはセピア色の想い出に過ぎないのだが。
携帯を開けば幹靖からメールが届いていた。
おおよそくだらない内容。漫画やゲーム持って来いだのと幹靖は春弥を自分よりも一段階下の人間だと思っているのである…嫌っているが故に。おそらく彼にしてみれば、彼自身を否定する人間は彼自身の価値も分からぬ阿呆だといったところなのだろう。阿呆はパシって当然パシられて当然。彼の脳内は分かりやすい単純さではなかろうか。和雄とは違う意味で。勿論…春弥自身それほど自分が複雑な思考をしているとは思っていない。単純さは幹靖と五十歩百歩で、単純に発想が違うだけなのである。春弥はパシるパシらないだとか他人に何か強要させることに興味を失ってしまった、……あの日から。


向かい側の家の部屋に雫の姿が見える。眼鏡のレンズ越しに彼の不機嫌そうな表情が映る。きっと彼は自分に会ったからあのような顔をしているのだ、と春弥は思い、カーテンを閉めた。


ふと、バイトの時間になっていることに気付いてベッドから身体を起こした。
慌てて仕度をし、家を飛び出してから、春弥は自分のタイミングの悪さ、間の悪さというものを呪った。散歩でもしようと思っていたのだろうか、ちょうど雫が向かいから出て来たところだったのだ。「いわさき」と声を発しかけて、声を発さなければ彼は気付かなかったのにと唇を嚼んだ。案の定雫は春弥の方へ振り返った。バイトに遅れてしまうから、と自分に言い訳して立ち去ってしまえばいいものを、久々に向かい合った雫の姿に、声を掛けずにはいられなかった。
「…ど、何処かに出掛けるのか?」
「…」
雫は沈黙している。そのまま踵を返して家に戻ろうとしたために、春弥は勢い任せに雫の腕を掴んだ。
「ま、待ってくれ岩崎、俺は…ッ」
「…放せよ」
「っ悪い、でも」
腕を振り払った後の彼の声色は、絶対零度の領域に達していたと云っても過言ではなかった。
「俺はお前と話すことなんてない」
…結局雫は切れ長の眼を伏せ、春弥の身体を押しのけて家の中へ戻って行ってしまった。言葉もない。ばたんと完全に外部を閉め切ったドアを見て、低い溜め息を漏らす。悪いのは自分自身だと分かっていても、露骨に拒絶されればやはり傷つく。雫は全身で春弥を拒否していた。始めは彼の春弥への態度に周囲の人間こそ驚いて批判したものだが、事情を知れば誰でも途端に春弥を責める側に回る。責めるまでいかずとも、見損なったかのような眼差しで見遣る。非は完全に春弥にあるのである。雫は何も悪くないのだ。
春弥は自転車に鍵を差し入れると、沈痛な面持ちのままバイト先へと向かった。










”…痛いよ春、痛い、いたい、いたいよ…っ"
馬鹿だったのだ。子供だったから。子供だったからでは説明出来ないほど馬鹿だったのだ。










その夜、バイト帰りの道が妙に薄暗かったのを春弥は覚えている。
蛍光灯はついているし、普段の帰り道と何ら変わりなかったのだけれど…何故なのか夜の闇が深く感じたのだ。自転車を漕ぎながらも、早く家に着けば良いと思っていた。
それと同時に、明日もまた今日のような日になるのだと思うと憂鬱になった。和雄と幹靖と。…雫と。雫は良い。けれど学校と云う狭い世界の中同じような日々が後数十日数百日以上繰り返されるかと思うと閉塞感に苛まれて仕方がなかった。世の中にはもっと苦しい思いをしている人は沢山いるだろう。学生の時などあっという間と言う人もいるだろう。だがそれが何なのか。その誰かよりはずっと楽だと己に言い聞かせるのか。一日一分一秒、後になれば大したことはない瞬間だが、人が生きるのは過去ではなく現在だろうに、それを後から取って付けた「あっという間」という感覚で全てを済ませるのか。この閉塞感がなくなるのであれば他人と比較するのも良いだろう。だが果たしてなくなるのか?この閉じられた日常に対する息苦しさが。
心の持ちようと云うべきか、重く狭く考えるほど夜道の深さも増していくような気がした。ペダルを漕ぐ足取りそのものも重く、いっそ永久に家に着かなければ良いと先程までとは真逆のことを考えてしまったりする。青少年特有の青臭さ。視野の狭さ故に考える。だが大人でもない子供でもない自分達の世界は決して広くはない。何故なら自分たちがいるのは所詮箱庭の世界だからだ。
おそらく考え過ぎなのだと春弥は思う。つい雫と関わって昔を思い出してしまったばかりに今の息苦しさばかりが鼻についてしまったのだ。それに学校での生活も上手くいっているとは言えないものだからより考え込んでしまう。だが友人なんてそうそう選べるものでもないだろうに。当然のように友人がいる者といない者と、居ても不協和音ばかり生じて何故なのか上手くいかない者と。幹靖のことなど気にしなければ良いのだ。幹靖も春弥のことが嫌いであれば関わって来なければいいものを、彼は嫌いな人間にはちょっかいを出したくなる人種らしい。人との関わりは、嫌でも一方が関わろうとしただけで生じてしまうから面倒なのだ。煩わしい。息が詰まる。
そんなこんなと考えているうちに家に着いてしまった。
春弥は自転車を入れて門を閉めると玄関のドアを開けた。バイトは夜中の十二時を過ぎるから帰って来たときは誰も起きていない。父親も母親も寝ずとも寝床にはついている。息子の帰りが遅くなるのは当然だから何も考えたりはしていないのだろう。春弥にとってもそれは自然なことだった。小学生に上がった頃から、べたついた家族関係はなくなっていた。父親と母親には何ら特別な感情を抱いていなかった。よく家族愛だとか聞くけれど、家族など所詮同じ屋根の下に過ごしているだけに過ぎない。互いに迷惑をかけなければそれでいい。心の交換などする必要もなければ何年もしていない。おそらく居なくなっても何も感じないのだろうと思う。中学生の頃出来心で母親に自分が居なくなったら何か感じるか、と聞いたところ「泣く」と言われたがそれが本当かどうなのかも確信を得ない。自信も無い。「泣く」と答える子供思いの自分の言葉に酔っているだけなのではないかと思ってしまう。親子と云ったって他人ではないか。春弥はそう思う。ましてや親子であるが故に余計な期待や色眼鏡で見られることもあり、うっとおしいことこの上ないのだ。人間関係は思い込みであり願望から成り立つものだとも最近思うようになった。青臭い論理だ。だが…それほど間違ってはいないのではないか。
「今日はもう寝よう」
うだうだと余計なことを考え過ぎている。一晩寝てすっきりすればこんな気分も吹き飛ぶだろう。
入浴を終えて春弥は布団に潜り込むと、思考を無理矢理シャットアウトして眼を閉じた。視界が暗闇に包まれる。明日の朝まで眠る準備。


しかし翌朝になっても、夜が明けることはなかった。


時間経過で身体は眼を覚ました。目覚まし時計も朝七時に喧しく鳴り響いた。
けれど太陽は闇に喰われたまま、窓の外に広がる世界は漆黒に塗りつぶされたままだった。