必死






…駄目だ。


この二日間で、身体の中身が他の人々と違うことを突き付けられた透だったが、悲劇的な顔をして友人に訝しがられても困るので、努めて何食わぬ顔で登校した。教室には友人である来栖明人の姿がある。声を掛けることを一瞬躊躇われたのは、自分と彼の間に存在する境界線を有り有りと感じられたからだった。目の前が暗くなるような心地がして、しかしそうした心の動きも初めてではなかったので、どうにか堪えることが出来た。いつも通りの挨拶をして席に着き、後ろの明人を振り返る。
「なあ…今日からしばらくの間、俺が授業中に寝そうになったら起こしてくれないか」
唐突だが、学生としては格別不自然な内容ではないだろう。透はじっと見慣れた友人の顔を見た。明人は、一瞬色素の薄い瞳を驚いたかのように瞬かせはしたものの、それほど奇異に思った様子もなさそうに、幼い子どもの戯言を慈しむかのようにその眼を細めた。
「それはかまわないけど、いつもは平気で寝ているじゃないか」
そして、優しく口の端を持ち上げる。困った友人だよとでも言いたげに。その穏やかな態度に、透は以前と変わらぬ日常に触れたような気がして、ぎこちなく笑みを返した。笑って、けれどそうではないのだということも理解していた。彼は何も知らないだけだ。
本当なら、彼に頼みごとをすることなく、素知らぬ顔をして人殺しの小人など腹に抱えちゃいませんという顔をして、これまで通り突出したところのない黒鶴透という生徒として、机に突っ伏して眠りたかった。わりかし呑気な学校だったので、それで注意を受けることも少なかった。だが、今や透だけはそこから弾かれていた。
退屈で居眠りしたくなるような授業だろうであっても、眠ることは結構な確率で透の普通の人生…もはや見せかけだけであっても…の終わりを意味していた。自分ではなく周囲の誰かが死ぬことによってそうなる。先生、黒鶴君の口から変な生き物が。ざわざわがやがやとまとまりのないという括りにおいて、とてもまとまった集団から受ける、排他的な視線。黒鶴君は自分が腐っていることを秘密にしていたのです。やれやれ。

とはいえ、体内に小人を飼っていようとも透も人の子である。
真面目に授業を受けるのだと決意したところで、張り詰めていたはずの神経がふっと緩んで、気がついたら机に頭が落ちていたということも有り得る。そうした結果を避けるために、透は自分以外の意思を頼ることにしたのだ。人任せといわれればそれもそうだが、手段を選んでいる場合ではない。
明人も同様に人の子のはずだが、校内でも有数の模範生である彼は居眠りなどという堕落した真似はしない。何故そんなふうに振る舞えるのだろうと疑問に思い、以前「眠くならないのか」と尋ねてみたことがある。返答は「たまに眠くはなるけど寝るほどじゃないよ」と何ら参考にはならなかったが、ともかく彼は現在の透にとっての命綱に成り得る存在だと言えた。

しかして、以前の遣り取りを思い返しながらも、透は明人が口にした言葉に引っかかりを覚えた。彼の言葉通り、わりと寝ていることが多いのに、これまで小人を誰にも目撃されていないのはどうしたことだろう。

あの日…日野洋服店にスカートを受け取りに行き、逃げるひったくりにぶつかり気絶したときは、それで死者を二人出したはずだ。たまたま運が良かっただけなのだろうか。そもそも、いつからこの小人は自分の中にいるのだろう。紡が死ぬより前には、潜伏していたものとは思っていたが、もしかしたらこの小人は最初は紡の中にいて、宿主を殺して出てきたのではないか。しかしそれでは、何故紡の小人が透に入ったのか分からなかった。体付きが似ていただとか、何らかの寄生条件があって住み着いたのだろうか。だとしても、今度はその小人はいつから紡の中にいたのか、何故、寄生対象である紡を殺したのかという疑問にぶち当たる。後者については、そういった性質なのだ、と言われてしまえばそれまでだが、その説は透にとって到底歓迎出来なかった。小人が宿主を殺すなら、透もいずれ、紡と同じ結末を迎えることになる。…それならまだ、やはり小人は紡の中にいたのではなく、透の中にいたのだという説の方が…実際はどうであれ…精神衛生上、好ましかった。そして、疑問は今し方の不吉な可能性を掘り返した挙げ句、振り出しに戻る。いつからいたのか。
分かるわけない、と透は宿主殺し説への怯えを懸命に無視しながら(紡は他の猫や死者と同様に考えるべきだ、紡に深く悩んでいる気配などなかった)、己の不毛な思考に苛立った。考えれば考えるほど頭がいかれそうであったし、紡が死ぬ前に何も変わった出来事などなかった。いつのまにか身体をのっとられていたのだ。授業中のうたた寝では出てこないだけなのかもしれなくとも、こればかりは試してみるわけにもいかない。
「…透?」名前を呼ばれて我に返る。
考えに耽り過ぎた。何を聞かれたのだったか。透は準備しておいた言葉を口にした。
「いや…成績がちょっとやばいんだ、それで…真面目にしておこうと思って」
「珍しいね。いつも平均をキープしてるのに」
透が勉学に対して熱心さを欠いていることは、明人も長年の付き合いで知っている。
「ああ、うん。…ところで昨日うちに来てたんだって?これ、おふくろが忘れ物だって言ってたぜ」
話を反らそうと、鞄から白いハンカチを取り出す。今朝、朝食を食べる前に母から手渡されたものだ。洗濯されて、アイロンまできっちりかけられている。いかにもおばさんな母でも、人様の物くらいは気を遣うのだなと意外だったが、すぐに単に見栄えのする若い男が好きなだけだろうと思い直した。昔から、明人は容姿も頭もそこいらの芋のような男連中とは出来が違っていて、女性受けが良かったのだ。
「そう、…気がつかなかったな、ありがとう」
明人は微笑してそれを受け取り、手に持ったまま、
「黒鶴さん、透があまり話をしてくれないって零していたよ」
少々頭の痛くなりそうなことを言った。あのおばさん、息子の愚痴を、息子の友人に話しているのか。
「特に意識したことはないけどなあ。面倒くさいおばさんの相手させて悪かったな」
「それは別に。透が黒鶴さんをわざと避けてるわけじゃないなら、いいんだ」
下手をすると偽善的にも聞こえる台詞をさらりと言ってのけるところは、彼らしいといえる。
「何を言われたか知らないけど、おふくろは明人の関心を引きたかっただけさ。うちはなんもない、親父の浮気さえない平凡家族だよ」
そこで始業のチャイムが鳴る。慌てて前を向く振りをする。

担当の教師が数式を板書する。
透はそれを見上げている。
授業の内容は聞いていない。

明人との会話では、どうでもいいことばかりを口にしていた。
必要なことを頼んだ。ほかのぽろぽろとした会話も必要で大事だと分かっていても、嘘くささに咽せそうになる。
彼と会わなかった土日の間に、自分だけにべたべたと目には見えないけがれがこびり付いている。
他人の死の匂いや気配や小人の手垢。
それを明人には話せない。教室で一目彼の姿を見るなり感じたことだ。
他人に徹夜を強要するより、腐れ縁の友人に助けを求める方が簡単なはずなのに、それが出来ない。何故か。

薄情な自分とは違い、明人は紡の死にもきちんと涙する人間だ。
突拍子もない小人の話を聞かされたとしても、いきなり距離を置くようなことはせず、透の心身を案じてくれるだろう。彼はちゃんとしている。父親が有名な聖職者であることとは関係がない。幼少の頃から、根っこの部分が腐らないように自分自身で水を毎日取り替えているかのような濁りのなさ、健全な清らかさを持ち合わせている。
…昔、何故だったか、どうしようもなく途方に暮れていたときがあり…きっといま思い出せばどうということもないことだったのだろう、幼さ故に物事を大きく純粋に受け止めていただけで…傍らにいた彼は照れた顔ひとつ見せずにこう言ったのである。
『泣かないで、透。何があっても僕がきみを支えるから』
昔を思い起こせるような年齢になれば気恥ずかしくなるような言葉も、おそらく彼は今なお平気で口にするだろう。つい先程、透の家族仲を心配したように、何でもないことのように。

透は、その綺麗な友人に進んで汚水を振り撒きたいとは思わなかった。彼には、多少嬉しいことや悲しいことがある程度の平穏な世界にいてほしかったのだ。

無論それ以外の自分本位な理由もある。
嘘くさかろうと自分の存在に引け目を感じようと、自分の周囲にまともな世界を残しておかないことには、透自身がやりきれないだけなのだ。知られなければ、干渉されることもない。自分で蓋を開けて中を覗き見ることはあっても、誰かに勝手に開けられることはない。自分の周囲の人間全てが、自分と小人の関係を知っているなどという状況になれば、それこそ悪夢でしかない。






「こんにちは」
学校帰り、店番をしているおじいさん店主に声を掛けた。
「おお、待ってたんだよ」
「待ってた?」
昨日の今日で顔を覚えられていたらしく、おじいさんはいそいそと透にちぎられたメモ用紙を差し出した。
「あいつからだよ」
しわくちゃな指先は、あまり透の周囲には見掛けないので、少し不思議なものを見る気持ちがした。
その手のメモを受け取り、その場で広げる。中に描かれていたのは…小人の絵だ。何かのコピーのようである。以前聞かされた童話の類いのものだろうか。
「…ほかに何か、言ってませんでしたか?」
「いいや、知らんな」
透は礼を言って店を後にした。

日付を跨いだ真夜中。日野洋服店までの道のりは、商店街で揃いの丸い街灯はあれどとても暗い。
チャイムを鳴らすと引き戸が開いた。
「こんばんは」
「ジジイにメモ渡しといたろう」
「今夜こそ小人に会う、という決意宣言かと思ったんで来ました」
日野青年は、はずれだなとだけ言って背を向けて、透を中に通した。昨夜と同じ流れをなぞり、二階へとお邪魔する。お盆に乗せられた縦縞模様の湯呑みから湯気が立っている。口をつけてみると、ほうじ茶だった。対する青年はやはり珈琲を飲んでいる。
「さっき、」
「なんだよ」
「はずれだって言ってましたけど、正解は?」
ただの嫌がらせだとしたら、子どもじみている。とはいえ、この青年に子どもじみたところがないとは言えない。
もっと成熟した大人だったなら、繕うことにも長けて、表面上だけでも快不快を覆い隠した滑らかな対応をするだろう。しかし、透の中では、そうした大人も然う然う信用出来たものではないという不信感も紛れもなくあって、結局のところ、青年の大人としては未成熟なところは丁度適当なラインなのかもしれなかった。
青年は飲みかけのカップを置いて、ガムテープに手を伸ばした。裂ける音。
「お前の目に小人がどう見えているのか確かめただけだ」
「…同じものを見て、別の物に見えてたら怖いだろ」
「そうだな、おんなじでよかったな?」
青年は一瞬だけ唇を皮肉げに綻ばせてこちらを見て、すぐに手許に視線を落とした。自分が単純過ぎるのか、たったそれだけのことで気持ちがざわついた。小人のことで言葉遊びなどしたくはなかった…する余裕はなかった。あんなもの、の見え方がどうだというのだ。小人のような存在であれば、人によって見え方が違うということは十分有り得るだろう。大人には見えないとまで言われているのだから。
…透の目に小人がどう見えているのかどうか。
今日はガーゼではなく、ラップを使うことにしたらしい。日野青年はラップのロールと鋏を透に差し出し、
「自分で切れよ。それくらい出来るだろ」立てた膝の上に頬杖をついた。ガムテープは切られて表面を上に下状態で畳の上に置かれている。
「なあ、あんたには存在していて許せないものってないの?」
一見しただけでも分かる。透にとって小人の存在はそうだ。しかし、青年は第三者だからなのだろう。屋上での会話でもそうだが、小人を目撃したことにがあるにもかかわらず、その属性を憎悪するでもなく、どこか距離を置いて眺めているようなところがある。今回のことも、透に頼まれて仕方がなくやっているだけであって、そうでなければ透の周囲を小人が食い荒らそうが関心はないのだろう。何せ、彼は自分の店の客が死んでも事務的に移動させるような人間なのだ。
透の質問は、青年に共感を求めてしたものだった。どうも小人の害悪性を訴えてもその辺は他人事らしく反応が芳しくないので、ならば彼の許せない基準点はどの辺にあるのか計ってみようというわけである。
「…あうえ」直後、透は言語にならぬ声を漏らした。青年に指で頬をつままれたのだ。
「なあ坊や…俺たちは楽しくお泊まり会をしているわけじゃないんだからな」
「はらひへよ」
どうしてこの人はこうも意地の悪い態度ばかり取るのだろう。
高校生相手なのだから少しくらい気に食わないことがあっても大目に見たらどうなのか。迷惑をかけている立場であまりああだこうだとも言えないが、やはり精神的成熟が足りないのではないか。
「分かったらさっさとねんねしな」
指はすぐに離れた。ふと目で追ったその指先は、やはり年老いた店主のものとは違っている。生白いことを除いては、自分のものと近い。
透は不満げに青年の顔を見遣ってから、ラップを適当なサイズにカットした。ガムテープと重ねて口周りに貼り付ける。横たわり掛け布団を引き上げると、青年が立ち上がって灯りの紐を掴んだ。

暗闇が落ちる。

途端に、二人分の気配が部屋に色濃く滲んだ。…正確には三人分だろうか、と考えて…微かに身体が震えた。光のない状態で小人を意識すると、頭の隅に追いやり誤摩化していたはずの恐怖がじわりと這い上がってくるかのようだった。そもそもあいつらの単位が分からないのだから、何人分かなどと分かったものではない…白い小人が卵のような状態で並んで体内に待機している状態を想像し、嫌悪感がぶわっとに全身に咲いた。上半身を起こし、たまらずガムテープを引き剥がす。
ひそやかな灯りがともった。
「…すみません」
青年の顔を見て、小さく息を吐いた。
想像の中で膨れ上がった恐怖が萎み、現実が透を捉える。目許をぐっと押さえ、こういうことを考えたら駄目なんだよな、と自分に言い聞かせられる程度には冷静だった。皮膚の表面に薄く張り付いている悪寒をさすって紛らわす。本当におれの中に小人なんてものがいるのだろうか、と諦めの悪いことを考えてしまう。全部悪い夢だったなら。…夢にしては、長過ぎるか。それに頬をつねられても醒めない。畜生め。
「ガムテープください。今度はちゃんと寝ます」
「ふーん、ほんとにちゃんと寝る?眠れないとか言わない?」
「…人が真面目に寝ると言っているのに、どうしてそんな言い方をするかな」
ガムテープを裂きながら、青年を睨む。青年は素知らぬ顔で珈琲の残りを飲んでいる。
ああもう、と透は布団に潜り込んだ。自分が勝手にささくれだっているだけなのは分かっている。だのに、もう少し優しくしてくれたらなあ、と甘ったれたことを考えてしまう。非常に短い付き合いであっても、この状況で彼が透に「大丈夫か?」などと寄り添い気遣うわけがないと予想出来るだけ、空しい願望だ。
この人が他の人と話しているのは見たことないが、もしかしたら、邪険に扱われているのは自分だけなのかもしれない。図々しくてうっとおしいので。分からなくもないが、それもあんまりな仕打ちだと思いながら、透は目を閉じた。
そうして背中を向けて視界から遠ざけてみても、部屋の中には仄かに珈琲の香りがしていた。


そのまま、気がつけば眠っていたようだった。


「 ……と…… …い… 起きろ……!」
呼びかける声に、不意に目が覚めた。
薄明かり。喉がごふっと何かを吐いた。口の中に広がる馴染みのない味。ガムテープを引ん剥いて、手のひらに吐き出してみた。赤い。指の隙間から布団に垂れてしまった、と思ったが、既に布団は至るところが真っ赤だった。
何だ?怪我をして…何処も痛くはない…けれど…腹のあたりに違和感があった。すうすうするような。妙に風通しが良いような。何かが零れているような。布団を捲ってよいものか分からなくて…見て確かめてみないことには違和感の原因も分からないわけだが…何やら頭がぼんやりするやら恐ろしいやらで…視線を動かして青年の姿を探した。声がしたのだから近くにはいるはずなのだ。

青年は畳一枚分離れたところで身を乗り出すように座っていた。向けられていた眼差しは思いがけず険しいものだったが、視線が合うと、僅かに緩んだように見えた。
「痛みはないか?」
問われた言葉は心配しているようで、状態を確認しているだけのようにも聞こえる。いや、この人は心配したりはしないか赤の他人だものな、と寝る前の素っ気なさを思い出し…次いで…彼の右手に目を留めた。大きな巾着袋。動いている。

以前にも似たようなものを見た。青年が傍らにいて、その袋の口を開けたのだ。
口内の粘膜に触れた細やかな手指の感触、喉を抉じ開け押し入られたときの異物感が、鮮明に思い出される。
ぼんやりしていた頭に急激に血が上った。
「……れを…」こっちに寄越せと言いたかった。
袋に入っているならちょうどいい、大きな石でも何でもいい、その身に叩き付けてすり潰してしまわなければ。

だが興奮する意識とは裏腹に、上半身を起こそうとしても腹に力が入らず、布団の上に再び倒れ込んだ。口からぼたた、と血が落ちた。どうしてだ。そこにそいつがいるのに。必死に身体に力を入れようとしながら、青年が小人を取り出すのを凝視する。
(出すなだめだころしてしまえよ!)
「飼い主が起きているときには、食事はしないと決めているみたいだな…」
食事?あの生き物の抜け殻製作はこいつらにとって食事だというのか。もし本当にそうならこの殺意も正しいもののはずだろう。
小人。目玉はなくとも、それが青年を見て、それから透を見たのが分かった。それは動いて生きている。
吐き気に見舞われて、透は更に血を吐いた。おぞましさに身体がぶるぶる震えてきた。
青年が透の傍にしゃがみこんで、湿った布団を持ち上げる。風呂上がりに着替えたばかりのTシャツも布団と同様の有様だ。彼の手がそのTシャツを無感動に捲り上げた。おなか。ぱくりと横に裂けていて、透は声も出なかった。なかみがみえる。そこに、袋から解放された小人たちが入っていく。一匹、二匹、三匹。全身が強張って、しかしそこだけ柔らかそうに活動している。裂けた腹は小人が収まると内側から縫い付けられていくかのように、徐々に塞がり、そして綺麗に閉じた。
青年が何か言っているようだったが、透の耳には聞こえなかった。

そこから先の意識がない。







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