羞恥










くるしい と 
手を伸ばしたのは






目が覚めたとき、自分が布団に横たわっていることにまず驚いた。
そして見上げた壁の時計と部屋に差し込む弱々しい陽の光が、昼の一時過ぎを示していると分かると、軽い混乱に呑まれた。今日は何曜日だったろう、寝ていたということは学校は休みで、けれど此処は。
頭の中の仕切りがさっと上がり、澄んだ精神に濁流が流れ込む。小人とともに見る世界のなんと澱んでいることか。奴らは腹の中で寄生した人間の足掻く姿でも観察しているのだろうか。あるいは、奴らにとって人間の身体は蟻が土中に巣を作るが如く、ただの住処でありそれ以上でもそれ以下でもないといった代物なのだろうか。
横に裂かれたはずの腹の状態を確かめようと、Tシャツを捲り上げる。傷自体の痕跡はなく、当然縫われた痕すらない。となるとあれは夢だったのだろうかと訝しむことも、いまの透にはわざとらしく思えてならなかった。どれもこれも夢ではない。いまこのときも夢であれば、自分が自分のものではない、真新しいTシャツを着ている道理はない。逃げ道は与えられていない。
部屋の中はしんとした静けさに満ちていた。長閑な鳥のさえずりだけが己以外の生き物の気配を感じさせる。それがどういうことか、透ははたと気がついた。猫の抜け殻が脳裏を過り、不安を象った小人が、背中にぺたりと寄り添った心地がした。腕を回してそれを払いのけようとしたが、手は空しく空を切った。目の周りがいやに強張り。

また、誰かの中身がなくなったんじゃないか?
また、誰か死んだんじゃないのか?
いったい、見張ってくれているはずの彼は何処に行ったのだ?

せっかく探し出したのに、いや違う、彼の方が自分を見つけたんだったか。
そうではなく、と時間軸を間違えた頭を揺すって、部屋の中をもう一度見た。自分と小人しかいない。
”それがどういうことか”…もしかしたら、

背中にへばりついたままの感触が腕を伸ばし、馴れ馴れしく頬や首筋に触れてくる。
いや、有り得ないだろうそんなこと、と透は自分の中に芽吹いて根を張ろうとする想像をちぎり取ろうとした。
自分が気絶する前に彼はきちんと小人を捕獲しており、小人は腹を通って帰って行ったのだ。それはこの目で見た。
だがその後、自分が何時間ここで眠っていたか分からないので(一日とは限らないではないか)、それきり小人が出てこなかったのかどうかも分からなくて、彼がいま何をしているのかどうしていないのかも当然分からない。
だからといって…透は頭の中であるにもかかわらず、恐る恐る想像を言葉にした…彼に限って、既に死んでいるということはないだろう。寄生されている自分よりも小人の扱いには慣れているはずなのだから。しかし自分が心からそう思っているのであれば、この背中から不安が止めどなく溶け落ちてくるような感覚はなんなのだろう。もはやそれは小人のかたちを成さない。
これで彼が死んでいたら俺の所為では。ぐるぐるとめまぐるしく頭の中でよく分からぬ感情が混ざり合う。いや、ない、それはない、たぶんない。考えが先走り過ぎているだけで、家の中を探せば見つかるに違いない。
背中の重みがどんどん滴り落ちて膝から下を湿らせていくのを感じながら、手をついて立ち上がり、障子を開けた。
「…あ」目の前に、誰かの喉元。
「おいおい、今頃起きたのか」
声。こちらを見下ろす黒色の瞳が視界に映る。だいぶ見慣れた不機嫌そうな顔。
その姿をすっかり認めると、透は目線を落として手を自分の口元に押し当てた。それでも、喉の奥から呻くような声が漏れた。
「え、何、吐いたりするなよな」
的外れな言葉に更に俯きがちになり、背中を押されるがままに布団に戻る。青年は後ろ手に障子を閉め、
「昨夜の小人帰宅は午前三時。それからお前が何しても一向に起きないんで、仕方なく道端で頭を打って倒れていた息子さんを保護したと朝方親御さんに連絡した」
前置きもなしに説明し始めた。
「…はあ、なんですって?」透は緩慢に顔を上げ、眉間に皺を寄せた。
吐きそうだった人間がその唐突な羅列を理解出来ると?実際吐きたかったわけではないが。
後半の親御さんにどうこうという面倒なワードが出てきたところは、かろうじて聞き取れた。
「息子さんが道端で倒れていたので保護しました、とご両親には連絡しました」
青年はご丁寧にもう一度繰り返した。倒れたので頭の具合でも心配されたのかもしれない。
「…ハイ」
「本当は貧血で倒れたくらいにしたかったが、お前が日常的に貧血を起こすようなかよわい少年のようには見えなかったんでな」
だとしても、今回の一件で随分と血の量は減ったろう。かなり巻き散らかした覚えがある。
「それで仕方なくお前の頭にたんこぶをつくり、おいでなすった親御さんにはさっき帰ってもらったところだ。病院で医者に見せてなんともないということだから、意識が戻り次第お送りしますって話をつけてな」
「たんこぶ…?」
昨夜はそんなものなかったぞ、と頭を触る。包帯の感触。いたい、と思える膨らみがあった。
「なんだこれ」
「お前が朝っぱらから不良に因縁つけられて殴られたか何かして出来たこぶ」
「最悪だよ」
家に帰るなり、ぼんやりしてるからよと怒られる自分の姿が目に浮かぶ。息子が被害者であることは考慮されない。
「…状況はなんとなくわかったよ」
「それはよかった。頭は打ち所悪いとおしまいだからな、その点ちょっと心配でな」
「それは百歩…千歩くらい譲っていいよ。なにで殴ったか知らないけど。それより」
「テーブルの角だ。それより?」
それ下手したら死んでたろ、と言い返そうとして、吐き出す言葉とは別のところにある感情が焦れたように昂って、口を噤んだ。それより。寝ている間に何があったのかという説明を聞くより、言ってやりたいことがあって、しかしそれを口にしようとするとじくじくと自尊心じみたものが痛むのだった。黙ってやり過ごそうとする唇を、ままならない感情が抉じ開ける。
「…さっき…何処行ってたんですか」
掠れている己の声音に、自分自身が驚く。何処からこんな声が出たんだ。
普段通りの声で…あんたが離れていた瞬間に誰か死んでたらどうするんだよと、自分本位に…いつも通り喚けばいいだけのはずが、出来なかった。
「さっき?…ああ。いくらお前のお守りするったって、とっくにお天道様昇ってるんだぞ?トイレくらい行かせろよ」
呆れたような顔で首を傾げながら、青年はこちらを見遣る。
「トイレ…」
「それとも、お前は成人した人間はトイレ行かないとでも思ってんのか?」
「……行くなら行くって前もって言ってから行けよ」
「何だって?」
呟きは小声だったので聞き取れなかったらしい。聞かれてたまるか。自分でも不可能なことを言っていると分かっているのだから。
「お前どうせ、また誰かがぽっくり…?すっからかんに…逝ったんじゃないかと気にしてるんだろうが、ほんの一、二分離れただけだ、死んでもうちのジジイくらいだろうよ」 

…事実、彼の言うように、誰か死ぬかもしれない条件下で、よくも呑気に離れてくれたものだという怒りもある。

だがそれ以上に…それが頭から抜け落ちるくらいに…自分はこの男が死んだのではないかという考えに囚われ、心底おののいたのだ。家族でも友達でもない、ただの顔見知り程度の彼のことを、何故それほどまでに心配しなくてはならなかったのか…平気だ、有り得っこないと言い聞かせてみても全く意味をなさないほどに、際限なく滴り落ちてくる不安に搦め捕られそうになって、障子に手を伸ばし。
「…おい?」声。青年は目の前にいる。中身もちゃんと入っている。彼は自分の背に触れたのだ。
…藁にも縋る思いで彼を頼っているのに、その藁が手からすり抜けそうになれば怯えもするか。
汗が冷えたのか…身体は冷たいのに、腹の裂けたあたりがじくじくと熱を持っている気がする。
傷跡も残っていないくせにとそれは心に波風を起こし、心配させられたことに対する憤りも引きずられるように顔を出した。
恐怖心に紛れ込んでいただけで、元々その感情はあった。だがそのことを口にしようとすると、何故なのか…奇妙にいたたまれない響きを帯びてしまいそうであったし、どこへいっていたのかと確認するよりも更に自身の自尊心を痛めつける予感があった。
知人…であっても生死が曖昧であれば心配とてする、なにを堪え難く思う必要があるのかとその心を宥めてみても、口は心配した旨の言葉を吐き出すことを強く拒んだ。自分の心配の度合いが、ただの知人に対するものではないと自覚があったためだが、透にとって日野青年は決して大事な種類の人間ではなかった。藁以外の何ものでもなかった。それは最初から変わることのないはずだったのに、酷く動揺した自分が大きな間違いをおかしたような気がして…心は彼を藁ではない大事な人間のように扱ったのではないかとの疑いが持たれて…羞恥に頬を打たれた。
「お前、顔赤いぞ。怪我…腹裂けたから発熱とかやめろよな。塞がってんだろ」
「何でもない。もう帰るし、あんたの気にすることじゃない」
顔を背ける。ああ、疎ましい。おそらく弱っているところにつけ込まれたのだ、と自分の心の動きを推し量る。
親切にしてくれれば情くらい湧く。そういうことだ。





「ただいま…」
「透!」
我が家の茶の間に入るなり、掃除機をかけていた母と遭遇した。
彼女は今日仕事を休んだのだろうか、それとも夜勤だったのだろうか。どのみち心理的に煩わせたことは確かで、苛立ちと罪悪感が透の中で混じり合った。何も知らないのだから放っておけよと思う気持ちと、気付かせたのは自分の落ち度であると認め、『不具合』のある息子ですまないと思う気持ちと。母と向き合うことさえしたくなくとも、それが許されないときもある。
「あなたねえ、吃驚させないでちょうだい!今朝日野さんのところから電話があって、何事かと思ったじゃないの!」
「ああ、うん」おれは不良に絡まれて頭をどうにかされた息子なのだ、と自分に言い聞かせる。
「ああうんじゃないわよ、そんなんだからちょうど良いカモだと思われちゃったんでしょうよ。こんな大きなコブまでこさえて!」
無遠慮に母の手が頭のこぶに触れる。痛みもあり触れられたくなかったので一歩下がってそれとなく退ける。
「まあでも無事だったからよかったわね。あなたが死んだら、一大事だもの!日野さんにちゃんとお礼は言ったんでしょうね?」
「言ったよ。あと、家の前まで送ってもらった」嘘だがそういう設定なのだ。ならそれらしく顔も出して行った方がよいのでは、と言ったのだが、彼は嫌がった。他人様の為に、そこまでやる気はないようだった。
「日野さんにはまた改めてお礼に伺わなくちゃならないわねえ」
「だとしても、俺がひとりで行くからいいよ」
「だめよ。こういうときはね、保護者が顔を出さなきゃいけないものなの」
透としては嘘が大きくなるようで嫌だったが、それで丸く収まるのであれば我慢のしどころだろうという判断が働いた。
「いつ行くつもりだよ?」
「明日にでも伺うわ。お店が開いてるときに…」
母は何事か考え出して、掃除機を再びかけ始めた。これを解放とみて、透は足早に自分の部屋へと引っ込んだ。喧しさが遠ざかる。
電気も点けずに机の椅子を引いて、腰掛ける。くるりと一回転してから、両手に顔を埋めた。
参った。
自分の家へ戻ったことで、多少頭は冷えたが、それでも先程までの動揺は尾を引いていた。
誰かを心配するのがあれほど心苦しいものだとは。この短い人生で、人並みに誰かを気にかけることはあっても、そこに生死を絡めて考えたことはなかった。もし紡の死も前もって予感出来ていたなら、きっと同じように狼狽えたことだろう。実際は予感するどころか、自分に巣食う小人の存在さえ気付いていなかったわけだが。
そう、同じようにだ、と透は指と指の隙間から何もない机の木面を見た。
(元より俺は、あの人が死んでも平気だと思って、夜通しの番を頼んでいたわけじゃない)
死なないと思っていたからこそ、頼んだのだ。そして今回、その前提が崩れたかもしれないと考えて、心が乱れた。ただの他人と突き放して眺めていたはずの青年が、身近な一人の個人として存在していることを思い知らされたのだ。家族では勿論ない、明人や紡のように友情を築いた間柄でもない。小人の関係で繋がっただけの人間。それでこうも心揺さぶられるだなどと、我ながら『ちょろ過ぎる』のではないか。許してもいない心の領域を勝手に冒されたかのようで、屈辱、恥辱ですらあった。宥め賺しきれないものがあった。
(あの人は、俺がいなくなったところで何とも思わないだろうに)
不平等だ。むしろ面倒なお子様がいなくなって清々するのだろうか。頭にたんこぶを作られたことよりもっとずっと最悪だった。
あまりに一方的な依存関係。今日の夜も、自分が彼のところへ行くしかないと分かっているので尚更そう思われた。
行かずに、小人と一対一で向き合うことは見方によっては無責任な判断だった。透の軽々しい失敗や怠惰は誰かの死亡の上に成り立つ。首尾よく起きてさえいれば済むことでも、しかし何日もそれを続けられるかと聞かれると、弱った。
小人のことを考え行動し続けるよりは、夜の間だけでも眠りの中に逃げ込んでしまいたいという気持ちの面での弱さも否定出来ない。軟弱。裂かれた腹を見て気を失ってしまったのも、この一言に尽きるのだろうか。口に出すことこそしなかったが、日野青年もそう思ったのではないか。日常的に貧血は起こさなくとも、その程度には軟弱な少年。やりきれないことこの上なく、透はしばらく同じ体勢のまま、動けなかった。
どれくらいの間そうしていたか、廊下から呼ばれる声に透は顔を上げた。
「透!明人君から電話よぉ!」
…何故わざわざ家の固定電話に掛けてくるような真似をするのだと、友人の顔を思い浮かべながら訝しむ。
ドアを開けると、子機を渡されて、聞き耳を立てそうな母を遮るようにドアを閉めた。
「もしもし?」
『透?悪いね、休みなのに電話したりして』
「いや、いいけどさ、どうしたんだよ?家に掛けてくるなんて」
今日が平日であったことを思い出す。化学に数学ほか何があったか、明日彼のノートに世話になろうと決める。
『それは仕方ないんだよ。透が学校に携帯を忘れていったようだったから』
「あ、そうなのか?」
『うん、だからね、今すぐ届けに行った方が良いのかと聞いておきたくてね』
必要ないようなら、来れるときにでも渡すよ。勿論中は見ないし、ロックだって掛けているんだろう?
電話越しに、明人の穏やかな声。スマートフォンを学校に忘れて行ったこと自体に気付いていなかった透は、慌てて鞄の中を確かめた。ない。子機を手の中で持ち直す。
「なら、明日渡してくれるか?明日は、行けると思うからさ」
あしたあしたと連呼して、透はふと明日とは何なのだろうと虚ろな思考に沈みかけた。彼の明日と自分の明日とでは、彩りや意味合いが全く別の物なのではないか。
『分かった、明日だね。それと、透…もう一つ聞いていいかな?全く、関係のないことなんだけど』
「ああ」自分に分かって彼に分からないことが然う然うあるものだろうかと疑問に思いながら、返事をする。
『きみは人を好きになったことはある?』

「…なんで、そんなことを?」
答えるまでにやや時間があったとしても、そう責められはしまい。
長年の友人に改めてそういった種類の質問を投げかけられることは、えも言われぬ気恥ずかしさを感じさせたし、健全で青い悩みを聞ける心境ではないと突っぱねるにも、彼の声は落ち着き過ぎ、含みはないだろうにあるような聞こえ方をするのだった。そして、似たようなことをつい先刻考えていたばかりではなかったかというふうに思わせた。実際には似ても似つかぬ内容だったのだが、一瞬、透の思考は今一度そこを通過した。
『いいや、深い意味はないよ。ちょっと、聞いてみたくなっただけなんだ。一応、僕たちは同じ年頃であるわけだし』
「何かの参考に?…」
『そうだね、参考までに』
意味が分からない。しかし、簡素な挨拶とともに電話は切れてしまった。
透は、明人がスマートフォンをどうするべきかということを理由に、本当は後者の質問がしたいだけだったのではないかと勘繰った。それも電話を掛けなければならないほど早急に。何故だろう?声音には、特に焦りや緊張などといったものは感じられなかったが。
考えてみたところで、透にはちっとも彼の心が分からなかった。自分が一日休んでいる間に、彼は年相応の恋にでも目覚めたのだろうか。不思議なことに、それは全く彼にふさわしからぬ心の動きのように思われて、その可能性は速やかに透の中で取り除かれた。




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