他人たち








「いつまでついてくるつもりだ」
日野青年がうっとおしそうに振り返る。
デパートの屋上から、洋服店の前に辿り着くまで、透はずっと青年の後ろを歩いていた。
「上着をまだ受け取ってない」
「はあ、面倒くさいお子様だな」
青年が戸を開ける。営業時間を終えて、じいさん店主は帰ったらしく姿がない。此処に住んでいるわけではないのか。
赤々とした夕焼け空。鴉が気の抜けた声で鳴いた。
制服の上着は布団の横に置かれたままなのか、二階への階段を上っていく青年の後ろ姿を眺めながら、透は受付台の前で待っていた。まもなくして、丁寧に畳まれた制服を手に青年が下りてきた。
「ほらよ、お客様のお品ですよ」
添えられた言葉はともかく、差し出した手つきは素直で真っすぐである。
下手すれば投げつけられるかとも思っていたので、透はその制服を受け取るまで、信用ならない目で青年の顔とそれを交互にじっと見ていた。初対面の人間を足蹴にするような輩をすぐさま信用するほうがどうかしている。長話に付き合ってくれたことは人として感謝しないでもなかったが、青年が少々暴力的な人間である事実に変わりはない。そのような側面があるとないとでは大違いだ。
だが、そんな青年に対し、透は言わなければならないことがあった。現実は往々にして苦く出来ている。
「あの、さ」
「まだ何か?お客様」
「帰んなきゃダメ?」
青年はあからさまに、何を言っているんだこいつは…という顔をした。
眉をひそめ、腕を組み、だるそうに溜め息をつく。
「そりゃ帰らなきゃダメだな、ここはボクのおうちじゃないものな」
「でも状況を考えると…」
「状況って、赤の他人であるお前をなんで俺が泊めてやらなきゃならない?」
それは分かる。しかし、この青年には人間として大事なものが欠落してやいないだろうか。話をして自分の気が済んだからと言わんばかりの用無し扱い。
懸命に言い返す。
「いや、まだ泊めろとまでは言ってない」
「じゃあお情けで煎餅と茶ぐらいは出してやる。それで帰るんだな?」
「いやそれは」
口ごもる。透とて、それこそつい先日初対面だったばかりの人間相手に自分が非常識な要求をしているのは自覚しているのだ。いっそどちらかが女性だったなら、もう少し別の意味で話は簡単だったかもしれないが、残念ながら両者とも男性である。
それでも、透は煎餅片手に長居させてほしいわけではなく、家に泊めてほしいと真面目に考えていた。
その理由をきちんと説明することは彼にとって苦痛でしかなかった。しかも青年もそれを知らないわけではないのに、この素気ない態度。悲しさだったり、心細さだったりが透の心には蔓延しつつあった。
脳内で、紡のことが弾け、猫のことが弾け、そして見知らぬ客人二人のことが弾ける。その様子はさながらポップコーンのようであったろう。透は声を張り上げた。
「ここで帰ってみろ、また誰か死んじゃうかもしれないだろ!」
口にした事実は、非現実的にもかかわらず、改めて透の気持ちを重くした。自分の存在は疫病神かそれに類する何かなのだろうか。
しかし青年はにべもない態度を崩さず、
「それなら、お前といたら俺が死ぬ可能性もあるだろ。いけずうずうしい奴だな」
「あんたは何の躊躇もなく串刺しにするだけだろ。焼き鳥みたいに」
「安眠を妨害されると分かっていて、泊める人間が何処にいるよ」
「これで俺が素直に帰って、誰かが死んだら、あんたの所為になるんだぞ。ここは人として情けを見せろよ!」
責任転嫁も甚だしいが、透は必死だった。また寝て起きて、誰かの抜け殻を見つけるのは嫌だった。藁でも何でも良い、縋れるものなら縋りたかった。ひとりでこの現実と向き合いたくなかった。
青年は無表情に透の顔を見ていた。それから、おもむろにチョッキを脱ぎ捨てて、背を向けた。
「分かった…とりあえず晩飯食って出直してこい。お前の分の飯まで作りたくない」

出直して門前払いとなる可能性はあるにせよ、なけなしの希望を掴み、透の心はふわっと舞い上がった。
実際は何も解決していないとしても、悩みを打ち明けられる人間がいると心持ちはだいぶ変わる。しかし無情にも抜け殻生産機となった現実をたちまち思い出し、浮き上がりかけた気持ちはあっけなく沈んだ。
抜け殻という言葉で取り繕ってはいるものの、あれは紛うことなき死であった。透の中の小人が、紡たちを殺したのだ。証拠はなくとも、奇天烈な現象が起こり始めた時期や青年の証言が、ほぼそれを確実なものとしていた。
(小人が殺したんだ)
(小人が紡を殺した)
脳内で繰り返されるそのふたつは、あたかも自分が殺したのではないと言い訳しているかのようで、透の足を何度も止めた。
(俺は何もしていない)
(でも小人は俺の中にいる)
(なら俺が殺したのと何が違うんだ?)
(全然違う)
(全然違う、一緒じゃない)
頭を振る。言わなければよかったのに…という声まで聞こえてくる。紡と猫だけならただの偶然、気のせいで済んだかもしれないのに。その声を発しているのも結局は自分自身で、透はこのところ露呈し続ける性根の腐り具合に、長い息を吐いた。同時に、また俺は、自分が可哀想で泣きたくなっている、とも思った。ぐずぐずと傷みかけた玉葱を剥いている。しかしながら、この現状の理不尽さは誰もが同意するところではなかろうか?
…ひとりになると、弱いところがよりずるりと出てくる。考えなければならないことがあるのだから、考えるのは仕方がないが、そこでいちいち感情的になっていては、身が持たないというのに。無論、歩いてやってくる現実が透にとって重過ぎるということも、要因としては大きい。所詮、自分に火の粉が降り注ぎそうになれば、友の死にまつわることも気のせいで済ましてしまおうとするような弱い人間に、いったい何を期待してやってくるのか。試練なんてものは、果敢な人間にだけ与えられていればいいんだ、と簀巻きにされた挙げ句、散々蹴り遊ばれた後であるかのように、ひ弱なことを考える。
だが彼にはまだほかにも考えなければならないことがあった。
小人の被害に遭う法則は全く以て不明だが、近くにいると死にやすい傾向にあるのは確からしい。何せ、小人は透の口から出てくるのだから。小人が消えたりしないで物理的にきちんと移動しているなら、この傾向から大きく外れることはないだろう。
しかしそうなると、特に近くにいる人間が危ないのではないか、ということは容易に想像がついた。つまりそれは、同居している家族であったりするわけだ。同じ屋根の下に暮らしている両親が、ある日突然死体となって転がっているのではないか(日野青年曰く、内蔵の腐る心配はいらない死体)。それを思うと、自然と透の体は震えた。信じられないような話であるが、もはや透が信じようが信じまいが、それは起こり得るのだった。どうしたらよいものか、透にはちっとも分からなかった。最悪、透が死ねば解決するのかもしれないし、逆に死んだ体からわらわらと小人が出てきて、余計に被害が広がるのかもしれない。そんなことを考えて、吐き気がするまま、自宅に辿り着いた。
一直線に自室に向かい、胸に手を当てて深く息を吸った。気持ち悪さが多少引いて楽になる。
片腕に抱えたままになっていた制服の上着をハンガーにかける。綺麗に縫い留められたボタン。よそ様のおうちに一晩預けておいた所為か、少しだけ、他人行儀な雰囲気を纏っているような気がした。袖口を持ち上げ、生地を何度か指でなぞり、また下ろした。
首の後ろをさすって、窓の外を見れば、すっかり夜の様相を呈している。虫の音。このままベッドに横になれたらなあと思った。そんなことをすれば、眠ってしまうだろう。諦めて、茶の間へと向かう。夕食の準備が整っていた。
「おかえりなさい、遅かったのね」
オレンジ色のくたびれたエプロンを視野に入れ、席に着く。食欲はないが、その旨を口にして、いつもと違うように思われるのも煩わしかった。皿を叩き割って八つ当たりしたところで何も得られないし、申し訳なさから、小人の所為で近々死んでしまうかもしれないと口にしたところで、頭がおかしいだけだった。だから黙って、コロッケに箸を入れた。美味しくないわけではない。小人の蝋燭のように白い肉体を思い出し、時折吐きそうになるだけで、コロッケ自体は昔からよく食べている、近所の肉屋のコロッケだった。買い物で連れられてよく通った、
「おふくろ…」
「なによ?あら、お父さん帰ってきたみたいね、早いじゃない、もう〜」
オレンジ色が揺れて、台所へ消える。父が休日に出掛けるときは大抵飲んできて遅くなるので、母も油断していたのだろう。
父が入ってきて母とお決まりのようなやり取りをする。それからしばらくして、母は追加のおかずを用意しながら、背中越しに透に尋ねた。
「それで、さっき何か言いかけなかった?」
透は空になった皿を見下ろして、箸を置いた。
「いや…ソース取ってくれって言おうとしただけだから」

午前零時過ぎ。
家の住民が寝静まったのを見計らい、家を抜け出して、洋服店の前までやってきた。
完全に電気が消えている。まさか本当に門前払いなのでは…疑いながら、戸の横にあるチャイムのボタンを押した。反応がない。透はポケットからスマートフォンを取り出し、登録しておいた日野洋服店の電話番号を選んだ。
『…もしもし?』
何度か呼び出した後に、応答があった。大幅に営業時間から外れている所為か、はたまた相手が透であると確信しているのか、声は無愛想そのものである。
「もしもし、チャイム鳴らしてるんだから出てください」
『…ああ』
電話が切れて、ぱっと中の明かりがつく。正面の戸が開いた。
「こんばんは。約束通り来ました」
「うん」
「うんじゃないよ、頭寝癖ついてるし。ちゃんと起きてくれよ」
日野青年は眠そうな顔で髪を手櫛で撫で付けながら、施錠した。
「…トイレはそこだ。済ませてとっとと上に行け」
「わかった」
トイレを借りている間、部屋の奥から湯を沸かしているような音が聞こえた。
ドアを閉めて二階へ上り、以前寝かされた部屋へ障子を開けて入ると、既に青年が座布団に腰掛けていた。お盆があり、その上には湯気を立てている珈琲とミルクの入ったカップが並んでいる。そして二組の布団。青年がホットミルクの方を差し出した。
「これ飲んでさっさと寝ろ」
「俺は起きてなくていいのか?」
透の予定では、透がうっかり寝落ちをしたときに青年が対処するというものだった。つまり二人とも起きている。
「それなら、最初から自分の部屋で頑張って一晩起きていればいい。簡単な話だろうさ」
「じゃあどうするんだよ」ホットミルクに口をつける。ちょっと熱過ぎるぞこれ。
「物は試しに、小人が出てこないようにお前の口を塞ぐ。それで結果を見る」
動揺にカップを持つ手が揺れて、中身が跳ねて畳に落ちた。仕方なくハンカチで拭き取る。
”口を塞ぐ”が、透の耳には”殺す”という意味に聞こえたのはどうしたものだろう。第一印象が悪過ぎるとろくなことはない。毒は…ミルクはきれいな乳白色をしている。
「ええと、口を塞ぐというと、どのように?」
「強度の面から縫い合わせるのが好ましいが、現実的にはガムテープ」
「冗談きついなあ…」この人、針を何でも刺してよいものだと思っているのではないか。ガムテープは、それに比べればかわいいものかもしれない…。
既に準備されていたらしく、青年は手の中でガムテープをべりべりと引き伸ばす。空になったカップをお盆に戻し、透は訴えた。
「待ってくれよ」
「何か言い残しておきたいことでも?」
「直接貼ったら痛いと思うので、ガーゼか何かで唇を保護しておきたい」
青年は無言で立ち上がり、壁際の箪笥の小さな引き出しを開けて、がさごそしたのち、未開封のガーゼを取り出してきた。
裁縫用の鋏で小さくカットし、それをガムテープの中央に貼付ける。その間、透はガムテープより皮膚が痛くない方法はないのだろうかと悶々としていた。青年の言うように強度も大事であるし、ここは諦めるしかないのだろう。
「ほら」
自分で自分の口にガムテープ貼るとか聞いたことないが、透の人生がまだ17年ぽっちだからなのだろうか。世の中知らないことが多過ぎる。透は大人しくそれを口に貼った。鼻呼吸限定。そして客用の布団に潜り込んだ。寝られる気がしない。青年は吊り下がっている灯りの紐を引いた。室内に闇が落ち、これでは小人が出てきても分からないのでは…と危惧した透の傍で、大きめのテーブルランプが灯された。横になっている透から、立ち上がっている青年の表情が窺える程度には薄明るい。今更ながら、どうしてこんなことになっているのだろう、と透は疑問に思った。これで明日には学校に行くのだから、おかしな話だ。…そうだ、アラームをセットしておかないと、寝られるかはともかくとして起きられない。両親が気付く前に家に戻らなければ。
「心配しなくても朝五時には起こす。俺が寝たい」
青年は座布団に腰掛け、カップの珈琲に口をつけた。人がぐうすか寝ている横で徹夜とか、俺だったら嫌だなあと思いながら透は目を閉じた。眠れるだろうか。

眠れた。
「おい、起きろ」
見張ってくれている人がいたので、安心して心置きなく眠ってしまったともいえる。
襟首を掴まれて揺さぶられながら目覚め、不機嫌そうな日野青年の顔、見慣れぬ景色、そして口呼吸に失敗し、むぐっふと呻いた。思い出した。
部屋の中も窓の外もまだ暗く、透は壁に掛かった時計を見た。朝五時。なるほど宣言通りである。
ガムテープを出来るだけそっと剥がす。思い切り息を吸い込み、伸びをして青年の様子を窺った。
「出なかった」
「へ?」
「昨夜は小人が出てくる気配はなかった」
青年の発言にやった!と喜べるほど、透も呑気ではなかった。ガムテープ効果を否定したいわけではないが、それよりもやるせない結果となったと見るべきだろうと思った。
「小人って、毎日出てくるもんじゃないかも…」つまり徒労。おかしくもないのに、透の顔は笑っていた。
せっかく一晩付き合ってもらえた機会をふいにしてしまった。元々、こうした実験というのは、一度やってみたところで、その出来事が確実に起きるとは限らないし、起きたところで次も同じ結果になるかどうかも定かではないものだといえる。何度もやらないことには…しかしそれの意味するところを口にするのは、さすがに透も忍びなかった。これから毎晩徹夜して見ててくれというのはなあ…と。せめてこの一回で何か結果が出ていたら違ったかもしれない。だが何かしら対策を編み出さないことには、透も安心して無害に眠ることが出来ないのである。
仮にもうお情けで一晩、日野青年が付き合ってくれたとして、またしてもランダムで出てこなかったら、今度こそ見放されてしまうかもしれない。何せ自分たちは赤の他人なのだ。
透は布団から抜け出し、青年の前に正座した。
「あの、待って、落ち着いてきいてください!」
「落ち着いてるよ」
「今日、俺、学校行ってきます。それで、終わったらまた顔出しても良いですか」
「いいよ」
透は驚愕し、畳に両手をついた。この人眠いからってすごく適当なことを言ってるんじゃなかろうか。
青年は話が終わったと判断したのか、二組あったうちの未使用の布団の方へと移動し、潜り込んだ。
「あのちょっと」
「寝る。帰れ。鍵は受付のところの引き出しに入ってる。閉めてポストにでも入れとけ」
完全に寝る体勢に入っている。その後、透が二度三度呼びかけたが無視されたので、素直に退散することにした。了解も一応得られてはいるのだし、透も家に帰って何事もなかったかのように自分の部屋に収まらなければならない。
テーブルライトの灯りを消して、静まり返った部屋を出る。
指示された辺りの引き出しを開け、鍵を取り出す。銀色の小さな輝き。考えてみれば、相当不用心なものだが、その程度の信用はあるのだろうかと透は不思議に思った。化け物を腹に抱えているような人間であっても、器の方にはしみったれた犯罪に手を染めるような度胸はないと思われているのだろうか。戸を閉めて、鍵をポストに戻す。違うな、たぶん常連客で身許がばれているからだ、と透は考え直した。母が修理をお願いするときに住所や電話番号やらを記載しているに違いない。
透は誰にも気付かれていないことを祈りながら、家路を急いだ。




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