不本意
薄汚いトラックにでもぶち当たりたい。
猫の滑らかな毛並みの感触が、まだ手のひらに残っている。
公園の水道の蛇口をひねり、申し訳程度に落ちてくる水で濡らしてごしごしと擦った。
ハンカチがない。水滴が足許に点々と散る。習慣とは恐ろしいもので、日曜日なのに制服を着ている。
仕方なくスラックスで拭い、日野洋服店へ足を向けた。
猫は鯉のぼりだった。仕方がない。
大部分の店にシャッターが下りている商店街を歩き、片隅に佇む店の戸を引いた。個人店日曜営業。そこにはじいさん店主が座っていた。いつもの若い人はいるかと尋ねると、
「今日は休みだよ。あいつに何か用事かい」
あの青年がいないだけで、店は平凡でしなびていた。
道を間違えて、昨日の悪夢の現場とは別の場所に来てしまったかのようだ。
「何処に行ったか、分かりますか?」
「デパートでねえかな」
「ミヤマのことですか?」
「たぶんそうだろなあ」
ミヤマというのは、ここから歩いていけるところにある古い匂いのするデパートだ。MIYAMAの赤い看板が目印で、近いうちに一度閉店し、大掛かりな工事をすると聞いている。
ミヤマはそこそこ混んでいた。このへんの人たちは、休みにほかに行くところがないのだ。
日野青年は本当にここにいるのだろうか。店主が無意味な嘘をつくとは思えないが、もはや用事を済ませて帰ってしまっている可能性はあった。店先で待ち伏せしていた方がよかったかもしれない。だとしてももう此処まで来てしまったので、諦めて探すことにした。空振りしたら、また店主に出迎えてもらえばよい。
幸い、ミヤマのテナントの多くが婦人服の店で、あの青年が足を踏み入れる範囲は限られている。透はまず、数少ない紳士服の店を目指した。
ミヤマの店内を一通り巡ってみたが、青年の姿はなかった。除外した婦人服店も胡散臭げな視線を浴びながら覗いてみたが同様だ。
時間は昼時で、食事にでも行ってしまったのだろうか。透は、飲食店街の先に屋上の遊び場があることを思い出した。
エスカレーターに乗り、四階へ。連なる飲食店を外からそれとなく眺める。食事をしている客は少ない。求めるシルエットはなし。
薄い日差しに包まれた遊び場は、しんとしていた。ミヤマそのものに客は入っていても、隅々まで見て歩くわけではない。アーケードゲームがオープニング・デモをひたすら繰り返している。
屋上へと続く自動ドアを抜ける。見えたベンチに誘われるように座り込んだ。少し疲れている。
こうしてぐるぐるとデパートの中を歩き回っていると、昨日の出来事が夢だったかのようにも思える。昨日の延長線上に、今日の行動があると分かっていても、脳味噌の別の部位で、今日はただの平穏な休日なのではないか、と心地よい錯覚をするのだ。しかし理性がすぐにこの非現実的な現実を背中に張り付かせて、早くちゃんとこっちを振り向いてみろとよ要求する。自分が狂っているか、化け物を抱えているかどちらかの現実。目を反らしたくて手で両目を覆って俯く。
真っ暗だ。
鯉のぼり。
なんでだ?
ここ数日の出来事に至るまで、透は自分が格別精神的に不安定な人間だと思ったことはなかった。
わけもなく攻撃的になったり、人を貶めて快感を得たこともなかったし、むやみやたらに塞ぎ込んだりということもしない。
反抗期と言えるほどのものがなかったことが少々気になる点として挙げられるが、突如としてこんなわけのわからない状態に巻き込まれる、自分が正気か否か疑わなくてはならない事態に追い込まれる類いの人種ではなかったはずだ。
将来の目標がないことがせいぜいの悩みの、そこらへんに履いて捨てるほどいる高校生のうちの一人。
当然、特別になれるほど突出した才能もない。定食で魚、みそ汁、お新香、煮物等々ある中で、ご飯茶碗に盛られた白米のうちの一粒のような空気感。
流れのままに飲み込まれて終わる。
それで不満はなかった。
皆と同じように生きていければ、それでよかった。他の誰かと比べて自分の価値が劣っていたとしても。
だがそれは無理、とまではいかないが、危ういようだった。
…どうも紡の死を皮切りに、なし崩しにべちゃりと、何処か知らぬ世界に落としこまれてしまったみたいだった。
そして彼が死んだことを、横目に眺めて悲しみましただけで素通りしようとしているから、出口が見つからない、誰にも拾い上げてもらえないのだろうか。
自分は紡の死から何かを得なくてはいけなかったのだろうか。
友達が死に、自分は息をしているくせに、変わらず、ただ平凡にささやかに生きていきたいと思っているだけのような、くずには。
普通を望むこと自体が大それたものだったのか。おぞましい生き物のねぐら程度の価値しかなかったのか。
そこまで考えて、自分の薄情さが再び身に沁みた。先日の紡の葬儀のときよりも、くっきりと浮き彫りになったのかのような。
なんだかんだ取り繕うとしたところで、結局は自分のことだけしか考えていない。今この瞬間に泣きたくなっているのは、普通に生きられなくなりそうな自分が可哀想だからだ。紡の死はおまけ、悲しいことは悲しかったさ、だがあいつの分まで懸命に素晴らしい生き方をしようとまでは思わない。それがそんなに悪いことか。
自分の罪悪を責めた挙げ句、自己弁護に走る。こんなに自分が卑小な人間だと今日の今日まで知らなかった。
白々しい。もう何を言ってもそんな気がする。死んでしまった紡さえ、憎たらしくなる。紡も猫も同じだと、気付いていながら。
「よお、こんなところで不景気な顔してんなよ」
聞き覚えのある声に顔を上げる。
若いくせに灰色の頭をした日野青年が、屈み込んでこちらを覗き込んでいた。
反射的に後ずさろうにもベンチに座っていたので、背もたれに背中がぶつかっただけで終わった。
休みのくせにチョッキ着用は変わらずだ。彼はトリプルのアイスクリームを片手に、乱暴に透の隣に腰を下ろした。
「トリプル…」せいぜいシングルかダブルだろうと思って口にしたら、
「ダブル頼んだらサービスでついてきた」
「あ、そう…」
当たり前だがそんな話をするために、彼を探していたわけではない。ミントのアイスを齧っている横顔に話しかける。
「昨日、学ランを忘れていったと…思うんですけど…」昨晩の彼の態度を思えば、こちらが丁寧に話してやる筋合いもあまりないのだが。
「うん、そうだな。でもそれなら、店のジジイに言えば返してもらえたろう?」
日野青年はにやにやと性格が悪そうな笑い方をした。彼にしてみれば逃げ出した獲物が自ら戻ってきたのだ。愉快なことには違いない。指摘された内容に頷きながら、透は今自分が存在しているこの世界をくそくらえと思った。ろくな奴がいない。
「あんた、何か知ってるんだろ?」
「例えばどんなことをだ?坊や」
「あの生き物のことだよ。じゃなきゃ、あんな落ち着いて対応出来るわけがない!」
情緒不安定の塊みたいに立ち上がりかけ、気がついて腰を下ろす。透が言及したのは、昨晩の青年に態度についてである。
白くて目玉も鼻もない、そのくせ人間のように手足を持った生き物が、突然人の口から…出てきて驚かない方がどうかしている。だのに、この青年はそれを標本のように針で突き刺し留めた。刺したら刺したで何が出て来るかも分からないにも拘わらずだ。生き物を串刺しにするという発想自体がそもそも残虐だが、その点はあの生き物のおぞましさを考えると一概に非難出来ない。
「ああ、小人のこと。そりゃあじーさんだったか、ばーさんだったかに散々聞かされたからな。お前も自分のじじばばからそれぐらい聞いたことあるだろう」
非現実的な化け物の話をしていたかと思えば、急に、そいつは馴染みの深い生き物ではないかとでも言いたげな口振りに不快感を覚える。
「じいちゃんもばあちゃんも俺が生まれる前に死んでる。それで、そのこびと、があれだって言うのか?」聞いたこともないぞ。
小人は童話の世界でこそ受け入れられている存在だが、所詮童話は架空の話でしかない。ましてやあれはそんな可愛らしいものではなかった。
「昔々、この町には、こびとさんが暮らしていました。俺も詳しくは知らん。ただこれは作り話ではなく、実際の話らしいとは聞いた。河童よりは信憑性ありって感じでな」
「河童よりじゃ大して信憑性ないな」
「他人様の説明は大人しく聞いとけ小僧。じゃあ、あれだ、宇宙人よりは信憑性あり」
「それはよかったな」
睨まれる。何故、こうも刺々しい態度を取られなければならないだろう。自分に乱暴した人間から大人しく話を聞かなければいけないというのも、実にやりきれない話だった。しかし、この青年がいなければ、透は手掛かりもないままに現状をひとり悩み、解決しなければならなかったろう。
「ある者はこびとさんを恐れ、ある者は敬い、またある者は仲良く手を取り合いました。ただ、このこびとさんは子どもにしか見えませんでした」
「子どもにしか見えなかった?」
童話としてはそれもありがちな。しかしそうなると、透の中にいるらしい小人はどうなのだ。子どもの定義が曖昧だが、透は十七歳。日野青年も透を坊や扱いするからには、透より年上のはずだ。
「やっぱり、その昔々の小人とは別物だってことなのか?」
「さあな。お前はともかく、俺の心が純粋で見えちまったということはあるかもしれない」
ああもう、お前のせいでアイスが溶けちまうだろう、と青年様は勝手なことを宣う。
半壊している三個目のモカ。青年がアイスの危機を救っている間に、透はいま聞いたばかりのことを反芻する。
昔、小人は実在した可能性がある。そこらへんの鳥や虫と同じように暮らしていたのかもしれない。人によって捉え方は違ったが、子どもにしか見えなかった。どこまでが真実か、若しくは全てが嘘なのか分からない昔話。それを…、
「あんたは信じていて、即座にあの生き物がそれだと思ったと?」
何故か咎めるような口振りになってしまって…青年が何をどう信じようが関係ないだろうに…いやな感覚がちらついた。対し、彼は笑うだけ。なんだそれ。
「でもあれがその小人で、蟻みたいに生息していたら」
…手を取り合うよりも殲滅させた方が平和に決まっている。青年が唇を歪めた。
「物騒な小僧だな。完全に害のある生き物だと決めてかかってもいるようだが…」
「一目見れば分かるだろ、あれは、存在してちゃいけないものなんだ」
自然にするすると出てきた言葉を言い切ってから、透は手で口に蓋をした。強い言葉は嫌いだ。特に汚い言葉を吐き出すと、自分の存在までもが汚いもののように思えてくる。精神の高潔な人間を気取っているわけではなく、たとえB級品であっても、それ以下に堕ちたくないだけだ。C級品と卑下するほど自己否定の傾向はない。安定して時々腐る程度のことは普通の範疇だと思いたい。
しかし何故か、今日このときばかりは、自分の根っこが自分が思うよりもずっと嫌な匂いを発しているのではないかという不安に取りつかれた。
そして小人は、その匂いを好んでいるのではないか。
恐ろしかった。なにが、とは上手く説明出来そうもなく、一瞬、日野青年が隣にいることも忘れかける。真っ暗が覗く。
かさかさと乾いた音がして、目を開く。
眼球に焼き付くように、柔らかい陽の色が揺れている。
影もひそやかに息づいているようだった。足裏が固い地面の存在を感じる。
青年が透をじっと見ながら、丁寧な手つきでコーンスリーブを折り畳んでいる。彼は喋らなければ、大人しく品の良い青年に見えた。裁断される布地のように。
「なあ…今朝、猫が死んでたよ」
「ふうん、それで?」
「空っぽだった」
「内蔵が腐る心配はしなくていいわけだ」
「その前は、友達が死んでしまった。やっぱり中身は空っぽだった」
「よくよく死体が転がるな。まあ考えてみりゃ、世の中の生き物は毎日死にまくっている」
「…それらと小人との関係は」
日野青年の黒い瞳が、億劫そうに瞬いた。その指先が気だるげにコーンスリーブを弄くる。
「お前が店で目を覚ましたときもそうだったろうが、俺はずっとお前のお守りをしていたわけじゃない」
「…うん」見慣れぬ天井と部屋があった。
「だから気付いたときにはもう客が二名ばかし死んでいたし、小人はそこにいた」
そこには死に関わった人間特有の、陰鬱な気配があった。
くすんだピンクのアパートは経過した年月相応に丸くなっている。
野良猫が喧嘩でもしたのか、花壇の土が荒れている。
階段を上り、見慣れた表札の下にあるチャイムのボタンを押す。
「はーい」間。ドアが開いて、透の母親が顔を出した。
「明人君!透ね、出掛けてるみたいなの。もうすぐ帰って来ると思うから、上がって待ってて」
「いえ、ちょっと近くに来て寄ってみただけなので」
「いいのいいの、ちょうどケーキもあるのよ。寄っていってちょうだい」
喜びと圧力の迸る笑み。明人はこの人はいつも強烈だなあ、透も大変だろうなあと思いながら、笑みを返した。
「はい…お邪魔します」
明人が透の留守中に、黒鶴家に踏み込むのはこれが初めてではない。
透の母親は毎度明人を家に上げたがる。そしてとっておきのお菓子を出す。なければ、近所の店に出向いて買って来る。今日ケーキがあったのは偶然だろうが、それも家族の為に買っておいたものではないのだろうか。明人が食べれば、誰かの分がなくなる。
透の母親、美穂子がテーブルをさっと拭き、座った明人の前に手際よくイチゴのショートケーキと紅茶を並べる。
「さあ、どうぞ」
「ありがとうございます」
これは手作りではないな、とケーキの整った角をフォークで削る。前に手作りのときもあって正直反応に困ったことがある。
美穂子は本当に普段から使っているのかと思われるような純白のレースで汚れのないエプロンを外し、明人の横に腰掛けた。
「美味しい?」
「はい」明人の答えに、美穂子は嬉しそうに頬を綻ばせる。手作りのときはもっと緩まる。
「学校はどう?透ったら思春期かしら、あまり話してくれないの」
ずい、と椅子ごと身を寄せてくる。美穂子は肥満体型ではない。やや肉付きは良いが平均体型だろう。それでもこの距離は辛い。
「学校は楽しくやっています。ただ…紡君のこともありましたから、透君もそれで気落ちしているんじゃないでしょうか」
「あ、そうね、紡君のことは本当にお気の毒だったわ。亡くなり方もよくわからなかったでしょう、それで警察も一度うちに来たのよ」
「警察は何と?」
「さあ…警察ってこっちが聞いても答えないところあるでしょう?それにたぶん何にも分かってなかったんだわ、そんな顔していたから」
美穂子は囁くような声で話した。気の毒と言いつつ実質この会話を楽しんでいるであろう口調に、明人は内心辟易しつつも顔には出さない。人間なんて所詮不完全な生き物なのだ。人間が完全なら神はいらない、と信者ではないが彼は常々思っている。
「明人君、ケーキおかわりいる?」
まだ手許のケーキは半分残っている。まさかホールで買ったのだろうか。
「いえ、一つで十分です。ありがとうございます」
紅茶のカップを手に取る。近過ぎて肘がぶつかりそうで困る。その右腕にそっと触れられて、カップを落としそうになる。
「明人君、お父様に似てすっかり凛々しくなられて…」
恍惚とした眼差し。前述したように、明人はこれまでにも手厚い歓待を受けてはきたのだが、かろうじてそれは息子の友達に対するものに留まっていたと…滲み出る何かはあれど…認識している。しかしながら、今日のこの状況はよくない。聖職者の父を崇拝する者が、息子の明人にも同じような期待を向けてくるのはよくあることなのだが、美穂子には透の母であるという立場を弁えてほしかった。明人は彼女の息子である透の友人なのだ。第一、明人は父の後を継ぐつもりはない。
「黒鶴さん。…そういうことをされるのは困ります」
腕を引いて、立ち上がる。友人の母に対し、素気ない言い方になってしまったが、ここはきちんとしておかなければ。
すると美穂子は「明人君…」と声を震わせて、椅子から立ち上がりかけ、ふっと力が抜けたように崩れ落ちて床に手をついた。しまったな、もっとやんわり拒否するべきだったか。明人は良心が咎めたが、しかしすぐさま美穂子が這い寄ってきて、彼の両足にしがみつき、その想いも霧散した。
「ちょっと…!」
「申し訳ありません、ですが…少し、少しでよいのです、ご慈悲を…っ」
スラックス越しに頬を擦り寄せられて、怖気が走る。足を押さえ込まれては動きも取れない。明人は懸命に美穂子の指を抉じ開け腕を振りほどき、不本意ながら手の甲で彼女の頬を張った。美穂子は喘ぎ、頬を押さえその場に座り込んだ。
「僕は父とは違います。こういった行動は慎んでもらいたい」
暴力は基本的に嫌いだが、これで彼女が明人に失望してくれれば話は早い。父の評判が少しばかり落ちたとしても、それは信者を管理出来ていない父の責任で、明人の知ったことではない。
「帰ります。ケーキ御馳走様でした。透君によろしくお伝えください」
後になって、今日のような仕打ちをしてしまうくらいなら、最初から家に上がらない方がよかったかな、と明人は少し反省した。
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