洋服お直し その後




それだけ言い放ち黙した日野青年の顔を見上げ、透は強張った息を漏らした。
彼は透とお話がしたいらしい。だがいったい何を話せと言うのだ。今しがた、踏まれたばかりの腕を恐る恐る動かし、彼の足首に指をかける。喉元から足を退かしてほしいという意思表示のつもりだった。
「吐こうとしないか?」
問いかけられたとき、彼が何を言っているのか分からなかった。
それが、先程の白い生き物を吐かないかという意味であると理解したとき、透は呂律の回らぬ呻き声を発した。得体の知れない生き物が体内に留まっていることは、理不尽で吐き気を催す仕打ちが、今なお継続していることを意味していた。それは純白で一点の染みもないすがたかたちをしていたが、存在自体が害虫のようにおぞましい、例えるなら大人の身体をすり潰して赤ん坊の肉体に詰め込み意思を宿したかのようなアンバランスな害悪の気配に満ちていた。体内で、何を仕出かすかも分からない…。
透は込み上げてきた衝動のままに指に力を入れ、日野青年の足を押しのけようとした。
それは相当な力のはずだったが、その動きを読んでいたかのように一気に喉元にかかる圧力が大きくなった。透は咽せた。日野青年は落ち着いた声音で言った。
「あのな、俺も好き好んでこんなことをしているんじゃない。ただ、吐かないでね、お話しようねと言っているだけなんだ」
「う、そだ」
「何が嘘なもんか。病院で錯乱して自傷する可能性のある患者を固定器具で押さえつけたりするだろう。いまはそれと同じことをしているだけだ」
それっぽいことを言っているが、ならばこの体内に入った生き物をどうしてくれるのか。誰の所為で入ったと思っている。
透はあれが体内で小さな手足を使って肺や胃の壁面を這い回り、疲れ切ったらねぐらにでもするかと思うと、不快感ではち切れそうになった。仮に消化出来たとして、吸収するのさえ妙な成分が蓄積されそうでいやだった。幼い頃に、寝ているときに虫が耳から入ったらどうなるんだろうだとか考えたことはあったが、小さい虫ならまだしも、あんな醜悪で大きなものが入って、何の問題も起きないなんてことがあるだろうか。どこかで詰まったような違和感がなく、まるで元々あったところに綺麗に収まったみたいな…なにをばかなことを考えているんだ…だとしてもだ。
やっぱりこれは幻覚か何か、知らないうちに薬物でも嗅がされて見せられているだけなのではないか。元々質量のないものなら、入って違和感がないことにも納得がいく。
いや、きっとそうに違いない。透はかろうじて平常心を保ちながら、微かな希望にすがるように日野青年の顔をじっと見つめた。これはお前が仕組んだことなのだろうと。渇き始めていた涙の跡に、真新しい筋が並ぶ。
「…しょうがないな」
日野青年は可哀想なものを見るような目で透の視線に応えると、喉から足を退かした。
思ったよりも優しい男なのだろうか。痛む喉を恐る恐る撫でながら、透はずりずりと布団から畳の上まで後退した。い草が手にちくちくと刺さったが、それどころではない。日野青年は光の少ない眼でこちらをじっと見つめているが、手を出して来る様子はない。
幻覚作用だか何だか知らないが、逃げなければ。
おそらく、頭のいかれたこの青年が、たまたま客としてやってきた透を引っ捕まえて己の妄想に巻き込んだのだ。
僅かに残された良心なのかなんなのかに絆されているうちに、立ち去るが賢明な行動だ。
透は勢いよく立ち上がり、障子を開けて飛び出した。軋む廊下を滑りそうになりながら、突き当たりの急な階段を駆け下りる。
逸る心とは裏腹に、最後の二、三段で足がもつれて、滑るように落ちて尻を打った。
あまりにも踏んだり蹴ったりなので泣きたくもなったが、それよりも早くこの幻覚から抜け出したくて、家に帰って安心したくて、店の外へと続く入り口の戸を引いた。
外はすっかり暗くなっていた。
日野青年が追ってきていないことを、ちらと振り返り確認してから、ゆっくりと戸を閉めた。
暗闇から今にもあの白い生き物が現れそうで、恐怖が俄に込み上げて来る。いや、あれはいま自分の中にいるはずで…と無意識のうちに手で胃袋あたりを押さえかけ、はっと我に返ってぎゅっとその手を握りしめた。
違う、俺の中にはなにもいない。
指が落ち着きなく動き出そうとする。もしお腹を押さえてみて、奇妙な感触があったらどうしようかと考える。でこぼことした、まるで人型の出っ張りがもしもあったら。そんなものあるわけがない。だのに、実際に押さえてみる勇気はなかった。視界が揺れている。
幻覚だと己に再度言い聞かせて、透は日野洋服店の前から走り去った。
誰も追っては来なかった。


自宅アパートが見えたとき、透は一目散に我が家に飛び込みたかった。
だがドアノブを掴んだとき、彼は動きを止めた。
有り得ないことだが、このままドアを開けてしまえば、あの生き物の侵入を許すことにならないだろうか。もし自分の中に潜んでいるのであれば、引き離してその隙に鍵を閉めて追い出さなければ、この家の中まであいつからにじみ出る毒素によって汚されてしまうのではないか、それで家族にも害が及ぶのではないか。
まぼろしだと散々言い聞かせてここまで辿り着いたのに、今頃になって何を馬鹿なことを考えているのだろう。
俺はくすりで頭がどうかしているだけなんだ。現実と妄想の区別くらいちゃんとつけろよ。幻覚は恐ろしいが実態はない。そうだろう。
透はかすれた声で小さく笑った。でなければ、自分の中にあの歪な生き物が実際にいることになってしまう。あんなのが現実に存在するはずがない。いたら人々はもっと大騒ぎして、とっくに殲滅させているに違いない。それくらいあれは害のある存在だ。一目見れば分かる。
とにかくあれはただの悪い夢だ。
ドアノブを握り直す。手のひらに、いやに汗をかいている。ここまでくると重症だ。

「あら、透。おかえりなさい」

背後から声を掛けられ、全身が強張った。
間が悪い。ドアノブからゆっくりと手を放して、振り返る。
買い物袋を下げた母が立っていた。…これも幻覚なのだろうか。
「遅かったのね」
「おふくろこそ」もしかしたら自分は一人芝居をしているだけなのかもしれないと思う。
「それが一度帰ってきたんだけど、牛乳だけ買ってくるの忘れてきちゃって、もう一回行ってきたのよ」
へえ、と透は答えた。一歩後退し、ドアを開ける母の為に道を作った。俯いて、手を口に当てる。
そうして母が玄関に入りスリッパを履き替えて茶の間へと消えるまでの間、透はずっと同じ体勢を保っていた。
”出て来るとしたら”口からなのではないかと思ったのだ。そんなわけないのに。

透は帰宅した。

茶の間に足を一歩踏み入れても、まぼろしを引きずったような悪寒が背中に張り付いていた。
取り返しのつかないことをしたかのような、それでいて、馴染んだ我が家の空気は早々に日常に戻り一体化することを急き立てるかのような…ぐちゃぐちゃとした感覚を透に植え付けた。
「そうそう!日野さんのところには行っておいてくれた?」
母の無駄に張り上げるかのような声が台所から響く。そんな大きな声を出さなくても聞こえると何度か窘めたことはあるのだが、これくらいじゃないと他の人に負けちゃうのよと、分かるような分からないような理由で聞き流された。十代半ばの透に、母の世界はまだ遠い。
「あ、いや、補習に行ったら、うっかり忘れちゃってさ」
「どうせまたぼんやりしてたんでしょう?しょうがないわねえ」
それに上はどうしたの?と聞かれて、一瞬戸惑う。上ってなんだ?ちゃんと頭はついているはずだ。脳味噌は薬でふやかされてしまったかもしれないけれど。
息子の鈍い反応に彼女は「がくらん、上着よ!」と言いながらエプロンを身に着けている。
そもそもいまは何時だ?時計…夜の八時を過ぎている。自分の格好を見下ろす…ワイシャツ…本当だ、あそこに…置いてきてしまったのだ。
「ともだちの家に…忘れてきたみたいだ」
安いものでもないし、新しく買ってくれとは言えない。どぶにでも落としたとでも言えばよかったろうか。しかしこの辺にどぶなどないし、今更ともだちの家云々は取り消せない。ということは、やはりまたあの青年に会わなくてはならないのか。ここまでやっと帰って来れたのに。

ベッドに横たわってみても、睡魔は訪れなかった。自分の身体が薄気味悪かった。
小さな人間みたいな生き物が体内に入ったかもしれない。
悩み事があるときはひとりで抱えないで誰かに相談してみよう、とよく担任の女教師は言っていたが、してみたところでどうなるというのだ。目にゴミが入ったならともかく、小さな人間って赤ん坊のこと?赤ん坊が入ったって、いつのまにか中にいたってこと?と、冷ややかな目を向けられる可能性がある。
問題が赤ん坊が体内にいることに掏り替わり、結果、男のくせに想像妊娠ときたら、目も当てられない。
家族もとてもではないが信じてくれまい。紡の死にショックを受けて、精神が混乱しているのだと思われるかもしれない。考えてみれば、紡の死に方からしておかしかったではないか。あのときから、既に何かが狂い始めていたのだろうか。これがもし空想や幻覚の部類であれば。自分はだいぶ前からおかしかったことになる。今日、あの青年にされたことも本当は自分の頭の中で繰り広げられていることに過ぎなかったのかもしれない。
そうだとしたら、もうどう手をつけたらいいのか分からない。
自分の頭がいつからかは分からないがいかれているとして、それをどう修理すればいいかなんて、誰が教えてくれるだろう。しかしこれが俗に言う心の病気だというなら、精神科にかかればいいのか。心とか頭とか分けるからややこしくなるわけであって。
これが病気なら、あの生き物を飲み込んだのもやはり実際にあったことではないのだ。
それだけはよかった。透は自分の目から涙が伝い落ちるのを感じた。
病気と現実どちらであっても、当たり前のようにあった平穏な日常はもはや失われつつある。


透は父の睡眠薬を少しばかり拝借してその日は眠った。
翌朝目が覚めて、昨日のことを思い出すと瞬く間に透の心は曇った。
自分は病気であるはずもない現実を見ている。
若しくは昨日のことは全て現実で、未だに自分の体内には別の生き物が入っている。
紡の死の不可解さを除けば、あの青年に幻覚作用のある薬を飲まされたのだという説明も出来たが、それら不気味なものたちは同様の”現実にあるまじきものごと”のように思われた。透は窓に額を押し付け、もういっそ全てが夢であったらと祈りにも似た気持ちになったが、ハンガーに学ランがかかっていないところを見ると叶わぬ願いのようだった。
(取ってこないと…)
そんなことを言っている場合ではない気もしたが、なければ生活に支障が出る。
睡眠薬の影響か寝過ぎた。朝の10時を過ぎている。日曜日なので学校は問題ない。
店の奥に連れ込まれなければ、酷い目にも遭わされないだろう。あの青年も全くの極悪人ではないように見えた。
白い生き物については、分からない。
透は牛乳を一杯飲んで、家を出た。
出たところで、足を止めざるを得なかった。

通路に猫が寝転がっていた。

日差しが暖かい。呑気にひなたぼっこをしているのだろう。
だがひょっとしたら中身は猫でなく、あの生き物かもしれない。透の中に寄生しているように、猫にも寄生しているのだ。妄想が過ぎる、と頭の中で常識人ぶった声がしたので言い返した。紡が死なず、日野洋服店までスカートを取りに行かず、あの生き物も見なかったならば、こんな妄想なんてしなかった、と。ただただ安全な場所で、画面の中でモンスターを殺していられた。紡と一緒に。

紡は誰が殺したんだ?

透は寝転がっている猫の胴体を掴み、持ち上げた。抵抗もされなかった。
予想していたよりも、それはずっと柔らかく、軽かった。
開かれた小さい口の中を覗いてみると、暗闇が何処までも広がっているように見えた。
唐突に透は鯉のぼりを連想した。そして鷲掴みにしたまま、階段を駆け下りて、花壇の土の上に置いた。





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