新緑











不注意から肘を擦りむいた。ぱさつく皮膚。ほんの僅かに血の粒が浮かぶ。放っておいたら黴菌が入るかもしれない。地面から垂直に生えている水道の蛇口を捻る。零れ落ちた水は、背中にぶるりと怖気が走るほど冷たかった。
「どうかなさったんですか」
少し離れたところで練習を見守っていた如月が近づいて来て、水滴の流れ落ちる腕を見るなり、ああ、怪我したんですね、と言った。それから、ちょっと失礼しますね、と清潔そうなハンカチを取り出して傷口と水滴を優しい手付きで簡単に拭った。どうということはない、とでも言うように。この布越しの接触も、傷そのものも。陽炎はそれをどこかぼんやりと眺めていた。傷みは、昔、母から受けた仕打ちを思い出させたが、それも瞬く間に淡い余韻となって消えた。彼は、血の付いたハンカチを水道の水に濡らした。弾ける水滴。彼はそのハンカチをまた使うつもりなのだろうか。それとも捨てるが一応濯いでみただけなのか。
「水、冷たくないですか」
「?ええ、まあ…夏場にしてはひんやりとしているかな、とは思いますが」
銀の髪に鮮やかな新緑の影が落ちる。時折、目映い陽射しが葉の隙間を突き抜けて眼球を焦がした。
水も滴るままにおざなりにされている彼の手を取る。不自然な接触。不自然な彼の手袋。防水加工なのか、と指先でぺたぺたと触れながら陽炎は思った。どうしました?と如月は微笑を浮かべている。多少不自然でも彼は何も思わないらしい。おそらく、触れる、という行為自体、彼が他者とコミュニケートするにあたって決して珍しいことではないのだろう。陽炎の不自然は、彼にとっては自然の範囲内に過ぎないのだ。
「如月さんの腕も冷たいですね」生白い手首に青白い血管。手袋をひんむくのは度が過ぎていると思えたのでやめた。
「俺には陽炎君の手がやたら熱いように感じますが…練習していましたからね、冷たく感じるのもその所為でしょう」
彼は子どもの戯れ言に当たり障りのない程度に耳を傾ける大人さながら柔らかく微笑して、陽炎の手を握り緩やかに解いた。
以前…随分前だが、通り魔に襲われかけて彼に手当してもらったときはもう少し乱雑に扱われていた気もするが、この変化は喜ばしいことなのだろうか、よくわからない。最近はまるで壊れ物に触れるかのような接し方で、逆に見えない壁に隔てられているかのような。
何が、とは上手く説明出来ない。甘やかされているくせにもどかしさだけは感じる。
「あ、桴海君が来たようですね」
遠くから息を切らしながら走ってくる白夜を見つけるなり、如月は陽炎から身体を放した。ふ、と感情が何かを訴えたが拾い上げるには至らず。反射神経は良いが体力はからっきしの白夜は肩で息で呼吸を繰り返しながら、文句だけは懸命に吐き出した。
「っ…人を使いっ走りにさせておいて、何さぼってんだよ…っ」
「使いっ走りだなんて人聞きが悪い。じゃんけんに負けた桴海君が悪いんじゃないですか」
「…とにかく、陽炎はツナマヨとカレーパンで、あんたは昆布と梅で良いんだろ」
「ええ、どうもありがとうございます。陽炎君も、どうぞ」
差し出されたおにぎりとパンを受け取る。
「ありがとう、如月さん。白夜さんも」
「どういたしまして」にこやかな微笑。とても嬉しそう。
「…どういたしまして」何か言いたげな表情。けれどすぐに気持ちを切り替えたかのように、白い髪がふわんと揺れた。
その切り替えの早さは陽炎には真似出来ない。いつまでもひとつのことを未練がましく引き摺って、今までもずるずる来てしまった。陽炎にとって、それは割り切れるような感情ではなかったからだ。燻る火種を無理に消そうとも思わなかった。必要がない。
だけれど、
「陽炎君?」
「…あ、はい!」
「少し休憩しましょうか。お疲れでしょう」
この人はそんな俺を本当はどう思っているんだろうか、と少しばかり気になった。





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