愉悦






懐かしい面差し。陽炎は思わず微笑した。
彼は振り向いてこちらを見る。少し驚いたような瞳。でも、本気で驚いているかどうかなんて分からない。 ねえ、月咲さんに砕かれた手首と足首は治ったんですか?ああ、そんなこともないな。歩き方がぎこちない。 あれから二年は経ったのに、治らないんですか?それとも治したくないんですか。月咲さんとずっと逢ってないんでしょう?あなたでも誰かを恋しく思うことはあるんですか。
矢継ぎ早に聞きたいことが溢れ出る。彼の本心を抉り出す行為。

「お久しぶりです、響さん」
「…陽炎君」

純粋に彼が自分の名前を覚えていたことに喜びを覚え、笑みを深める。
だけれど彼が自分の名前を忘れるわけがないのだ。何せ彼が愛してやまなかった片割れを殺した人間なのだから。
愉快だ。実に愉快だ。歪な感覚。もはや正常な感覚。血が疼く。
最期のあの人は美しかった。
彼は薄らと微笑した。

「随分背が大きくなってたから分からなかったよ」
「それでもまだ響さんの方が高いじゃないですか」

見上げる感覚は酷く少なく。互いの顔は以前より近しい距離にある。
彼の整った顔立ちは未だに如月によく似ていて、ここ久しく感じることのなかった感覚が陽炎の内側を突き上げる。
首筋から覗く薄い皮膚。あのときつけた傷は治ったのかな?再び抉って溢れ出す血を啜りながら傷口を舌で押し広げてやりたい。
そうしたらこの人はどんな声を出すだろうかと考える。
響はあの後いつのまにか姿を消してしまったがために、陽炎はずっとある燻った想いを抱えたままだったのだ。

「響さん、この後予定あります?」

それが、まさか今日再会出来るとは思ってもみなかったので、陽炎としては嬉しくてたまらない。
自然と顔も綻ぶ。指先が落ち着きをなくしてうずうずし始める。

「いや、特には何もないよ」
「だったらちょっと寄って行ってくださいよ。部屋は取ってあるんです」

逃がしてやる理由はない。
響はいくらか逡巡したのち、「まあ少しだけなら」と陽炎の申し出を受け入れた。彼が陽炎のことを憎んでいるのなら、この場で殺してもおかしくはないというのに。悠長に会話をしているということ自体、殺意のなさの表れではないのか。
少しばかり可笑しくなって、唇を歪める。

「響さんは俺のことが憎らしくないんですか?」
「君は私に憎らしいと言って欲しいのかい」
「あの人を殺したのは俺ですよ」
「知ってるよ。だけれど私が君に執着したところで何が変わるわけでもない」

私は君に興味ないんだよ。
彼は何の感慨もなさげに吐き捨てる。彼のその冷ややかさがとても好きだ。落ち着くとともに愛おしささえ感じる。興味を抱かれないことには何の不満もない。彼の意思など関係ない。踏みにじりたい。

「ちょっと狭いんですけど…どうぞ」

彼はすいっと入り込んで、窓際へ寄った。

「本当に狭いね」
「ええ。基本長居はしないので、寝られればいい程度の広さです」

横顔もあの人と同じ。一見隙だらけではあるけれど、その一度砕けた手首を掴んだら彼はどんな顔をするだろう。
痛みに呻く。堪える。嘲るように微笑む?なんだっていい、想像ではなく実際にそれが見られさえすれば。殺したりはしない。それはあの人で十分に満足した。殺す感覚。生命が消えていく瞬間。愛おしくて一生忘れられなくなる感覚。鮮明な熱と慈愛。全神経が昂って歓喜に支配される。けれどあれは一度しか試せない。どうせやるなら最後が良い。
あの人に手をかけてから考えた。あのときは初めてで緊張して想いのままに仕出かしてしまったけれど、次はじわじわと愉しみを持続させたい。

「響さんは珈琲と紅茶どちらが良いですか」
「珈琲砂糖多め」
「相変わらず甘党なんですね、白夜さんと良い勝負だ」
「…彼は今元気にしているのかい」
「元気と云っちゃ元気です。最近は会ってないので分かりませんけど」

お湯を注ぐ手を止めずに、白夜のことを思い出す。
あの人を殺した自分に、彼は激昂するものとばかり思っていた。
実際彼は陽炎を殴りつけたし、震えてはいたけれど、どこか諦めに似た目で陽炎を見ていた気がする。彼は自分の行動を全くもって予想していなかったわけではない、そういうふうにも受け取れた。薄ら予想していながらも、殺してしまうとまでは思っていなかったのかもしれない。
彼は純粋な人間であったから、好きで、誰かに殺されるくらいなら自分で殺してしまいたいという気持ちが理解出来なかったかもしれない。だが陽炎はそう思ったのだ。あの空間であの人が死んでしまうかもしれないと思ったとき、この人が自分以外の手で死ぬなんて嫌だと。
…だからこそ、生き存えて心底安堵した。これで彼の全てを奪ってしまえる。彼を独占出来る。彼が白夜のことを気にかけていたなら尚更。
目の前にいる青年に関してはそこまでの独占欲はないけれど、やはり他の人間を優先されるとあまり気分が良くないのも事実だ。それはこの青年があの人に似ている所為もあるし、また、この青年自身を陽炎が多少なりとも好いているということが大きい。

「月咲さんのことは聞かないんですか?」
「…何故?」

この青年は考えていることが顔に出難い。いつも程々に愉しげな顔をしているが、本音はどんなものか分かったものではない。愉しんでいながらも不愉快に思っていることもそう珍しいことではなさそうだ。その点はあの人とは違う。あの人は常日頃から笑っていても、必ずしも楽しんではいなかった。それは偽りの、

「響さんの手首と足首砕いたのは月咲さんだって聞きましたから」
「まあ私は君を始末してしまおうと考えていたわけだし、それもやむを得なかったんじゃないかな」
「月咲さんだから大人しくやられたんじゃないんですか」
「……」
「響さんはそんなに被虐的な人じゃないでしょう。それに、抵抗することも出来たはずだ」

曖昧な微笑。…陽炎は内心愉快なあまり舌打ちする。少しは取り乱すかと思ったのに。
この人が骨を砕かれたときの顔を見たかったな、と思いながら、砂糖を掻き混ぜる。

「お待たせしました」

さあ、この人がこの珈琲を飲み終えたら何をして遊ぼうか。






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