a.痛覚ロマンティック

「響さん。月咲さんに折られた手首は治ったんですか?」
少年だった青年は唇を釣り上げて笑った。大人びた穏やかさが一転して、晴れがましい爽やかな悪意が剥き出しになる。彼は実に嬉しそうに微笑んで…それは以前は見られなかったもので…無表情のままの青年の手首を掴む。青年は黙ったまま掴まれた手首を見下ろして、痛みに呻くこともなく少年だった青年すなわち日向陽炎という青年を見た。背丈はまだ黙ったままの青年すなわち芦辺響の方が高く、けれども見下ろすほどではない近さに陽炎の目線はあった。年月がそうした。
「治った…いや、治したわけはないですよね、だってあなたは月咲さんとまだあれ以来会ってない」
「…君にしてはくどい聞き方だね」
「つい嬉しくて、すいません」
悪びれた様子もなく陽炎は口先だけの謝罪を吐き出す。彼はそのまま強く握った手首を握りしめて、痛めたであろう足首も踏んづけてしまおうかと迷い視線を泳がせる。




b.冷温回廊

「白夜、どうしたの?」
「いや、…なにも」
フォークを持つ手が止まっている。先に刺さっていたポテトが割れて皿の上に転がる。
「もしかしてハンバーグに異物でも入ってたの?」
だったら取り替えるように…と店員を呼ぼうとする姫の手を掴んで座らせる。体温。彼女の腕は温かい、…あの男とは違って。彼の手は夏場でもひやりとしていた。……冷や汗が背中に滲む。
「白夜?」
「わりい、先に食べててくれ」
喚いている姫を置いて外に飛び出した。むわりと夏の熱気が全身にまとわりつく。汗だけが冷えている。
支払いだとかは後ですれば良いとしても、彼女は今頃怒っているだろう。だが本当のことを言ってしまえば彼女はもっと怒る。それか、…やるせないような顔をするのだ。そんな表情だけはさせたくなかった。
むしろ言われて喜ぶ人間などいやしないだろう。…不意に見た面差しが…彼によく似ていただなどと。




c.膜

「白夜さん、聞きましたよ、最近元気ないって」
そう言って微笑みかければ彼は複雑そうな顔をする。
「敬語」と呟かれて「だって白夜さんの方が年上だもの」と言ってやれば彼は不服そうな面持ちで黙り込む。桴海白夜という彼はきっと以前にも増して丁寧な言葉が嫌いなのだろう。あの人を思い出すから。彼は率直でがさつなくせに繊細だ。そして悪意は理解できるくせに歪みはないから癪に障る。いや…癪に障るというよりは、人間としての種類が違うと感じる。それらしい言葉をぶつけあっても、解釈の感情が異なる。…決して彼のことが嫌いというわけではないけれど、好きでもない。強いて言うならば「普通に好き」なのだ。曖昧に誤摩化したふりして本当は無関心に等しい言い回し。情の有る無関心。微笑する。
「どうかしたんですか?久々に会ったのに、そんな顔されてちゃ気になるでしょ」
彼はこちらを見遣る。戸惑いを押し隠そうとして隠せていない瞳。彼の眼はとても正直だ。昔からそう、彼は真実を見透かそうと必死になるから、ざらついた事柄が胸の内にあると無性に居心地が悪くなる。だからあの人もきっと、とてつもなく居心地の悪い思いをしていたのだろう。まあ自分の傍にいたときはそれ以上だったのだろうが。そう思うと少しだけ心が穏やかになるのだから不思議だ。彼はきっと居心地が悪いと思いながらもこの人のことが好きで。けれど所詮好意なんて淡い感情、罪悪感には敵わない。あの人はこの人が好きでも結局は俺のことを見ていたんだからああなんて素晴らしいことだろうと思ってしまう。そしてこの人は目の前にいる人間がそんなふうに思っているだなんて微塵も思っちゃいない。なんて善人。なんてめでたい人なんだろう。
ああ…妬ましい。










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