記念日
「全く、気色悪いなあ」
と、他人を罵る言葉を吐きながら椅子にふんぞり返っているのは、言わずもがな、響先輩である。そしてその罵られている相手も言わずもがな、僕である。事のあらましはほんの二、三行説明すれば終わる。
今朝方、僕はそれはそれは心地好い夢を見ていた。もう察しの良い方はここで何が起きたか理解するだろう。僕は気持ち良さのあまり寝言を言っていたらしい。その寝言の内容がまずかった。固有名詞が入っていたためにとてもまずかった。僕は僕を起こしにきた響先輩によってベッドから床に蹴り落とされた。ついでに腹に一発食らったのは言うまでもなく、しかしこの場合は一発で済んで有難いと思うべきなのである。おそらく誰だって夢の中とはいえ、恋人でない人間に好き勝手されるのは嫌だろう。とはいえ僕とて好きでそんなふうに先輩を好き勝手したわけではないのである。だって夢だ。僕の意識の支配が及ばない範囲なのだ。別に僕が先輩とそんなことをしたいと思っていなくとも、夢は勝手にそんなことをするように仕向けることもあるのだ。…うん。
先輩は片手でミルクティーをぐるぐる混ぜながらも相変わらず椅子でふんぞり返っている。夢なんだからそこまで立腹しなくてもいいではないか。僕はぽっそりと反撃を試みる。
「気色悪いって、先輩だって男いける人じゃないですか」
「勘違いするな彼との間柄は兄弟愛だ純愛だ。そんな汚れたものじゃない」
「あれえ、そうなんですかね。てっきり僕は先輩は男女問わず平気でキッスとか出来る方だと思ってましたよ」
おお、睨まれた。怖い怖い。そうかあ、意外とこの人は恋愛に対しては拘る人だったんだなあ。案外純愛志向な人なんだなあ。
僕は素直に感心しつつ、でも、と付け足した。
「前、楊炎の少年をデートに誘ってたじゃないですか」
「あれはその方が後で都合が良かったからだよ」
「ええ、先輩は都合が良ければ平気で男でも相手にしちゃうんですねえ?ッウボフッ」
胃に衝撃が。この人明らかに術の使い方間違ってる。今朝まだ何も食べてなくて良かったと僕は心底思う。全くちょっと絡んでみただけで怒るんだからこの先輩もつくづく気が短い。大体の事柄には寛容なくせに、自分を中傷されると怒るのだ。誰だってそうだろうが、この人の場合いい大人のくせに怒ると手が出るから困る。ああ、大人といってもまだ未成年か。やたら人として可笑しいから忘れていた。そういえば。
「先輩もうすぐでお誕生日ですね」
「まだ数ヶ月も先なことをもうすぐというのかい、君は。全く…今は夏じゃないか。私の誕生日は秋だよ。季節さえ違う」
絡むなあ。僕がねちねちと絡んだ仕返しだろうか。しかも実際は秋というか冬に近いと僕は思うわけで。というか今更と言っちゃ今更なのだけども、先輩は僕のところにいったい何しに来たのだろう。用事があったからこそわざわざ起こしに来たのではないのか。そもそも先輩がこんな朝早くから起きていること自体が異常だ。この人は万年睡眠不足だから朝も僕が起こしにいかなければ起きないくらいなのに。
「別に君に用なんてないよ」
「はあ」なら何のために僕は快眠を、これ以上ないくらいの快眠を妨害されたのか。
「ただちょっと暇だっただけさ」
暇。この人が暇。さては仕事もないけど、ついでに弟さんと喧嘩でもしたか。ちら、と見遣れば先輩は不機嫌そうな面持ちをしている。どうやらそうらしい。僕は先輩の暇つぶしの相手に選ばれてしまったと、そういうわけだ。僕としては喜んでいいのか良くないのかよく分からないところだ。比嘉先輩ではなく僕に声を掛けたという点では、ある意味喜ばしいことではある。
…僕はなんて健気な部下だろう。自分の包容力の大きさに酔いそうだ。
とかなんとか考えていたら先輩が席を立った。彼は僕に向かって、
「君は外界に気になる子とかはいないのかい」
と、驚くべきことを聞いてきた。この先輩が僕の色恋に興味を持つなど尋常ではないというか、僕の命も今日までかもしれない。いや、いやいやそもそもだ。先輩は本気でそんなことを聞いているのか。日頃の僕の愛の告白はいずこへ。もしかして部下が先輩のご機嫌取りしているくらいにしか考えてなかったわけですか。なんてひどい。いつも通り、否、いつも以上にひどい。
だから僕は無駄にキリッとした顔で言ってみた。
「僕の気になる方は外界ではなく、いま、目の前にいます」
「そうかい、なら良かった」
…ん?これは…どういう、反応で?
いつもみたいに投げやりにああそうかそうかと受け流すわけでもなく、別の用事を持ち出して無視するわけでもなく。良かったって何が。
先輩の顔を見つめてみても、無駄に整っているだけで何も分からない。もう少し真面目に言うと、怒っているわけでも微笑しているわけでもなく、かといって無表情というわけでもなく、大変説明し難い表情ではあった。むすっとしているというか、心無し安堵しているかのような。
どうにも分かり難かったので僕はずばり聞いてしまった。
「先輩、…どうかしたんですか」
何考えてるんですかとか、いまどんな気持ち?と聞いても何だか失礼なような気がしたので、僕は無難な聞き方をした。何にせよ、今朝の先輩の行動は実に先輩らしくない。熱でもあるのではなかろうか。そう思って手を伸ばしてみたのだけれど、…特に熱はないようだった。
「…本当に君は失礼な奴だな」
「すみません」
「別に良いけれど…私は熱なんてないよ」
「そのようですね」
ならいったいどうしたのだろう。先輩は何か言いたそうだ。言いたいことがあるなら言えば良いのに。口籠るなんて先輩らしくないではないか。何に対しても切れ味が鋭いのが先輩のモチーフであり長所なのだから。
「…もしかして異動の宣告ですか?」
僕に先輩の部下をやめろという。ああでも、この人ならそれくらいあっさり言ってのけるだろう。なら違う。
「違うよ」でしょうね。しかしながら、僕は少しだけ安心した。…しばらく異動はなさそうだ。
「なら何です?顔に言いたいことがあるって書いてありますよ」
「…」
眼を反らした。否定はしないのか。しかし、なんだ。熱もないのにどうしたんだこの人は。
けれどもよくよく考えてみれば、僕が気になる人がいますキリッからこういう流れになったのであって、先輩は僕に毎度の如くの告白をされてから何か言いたげにしているということにもなるのである。もしかして、今はとてつもなくピュアな状況なのだろうか。…脈有りですか?と言いたいところだが有り得ない。
「とりあえず先輩どうぞ座ってください」
どうにもこの人は先程から立ちっぱなしだ。部下の僕が座っているのに上司にあたるこの人に立っていられちゃなかなか居心地が悪い。
すると先輩は生返事をしてソファに腰掛けた。…異様だ。うーん。これはあれだろうか。据え膳食わねばだろうか。けれどその件で僕は気色悪いと言われたばかりなのである。まずいよなあ。
というわけで、僕はまたしても率直に尋ねてみた。
「先輩」
「なんだい」
「手を出しても良いですか」
「…私にそういう趣味はないと言ったろう」
なら何なのだろうかその妙に物憂げな態度は。しかし先輩はそう言ったのち、「でもそうだなあ」と気になる言い回しをした。じっと視線が合う。
それから。
「今日は何の日だ?」
「え」
平日。…可燃ゴミの日。違うな。愛鳥週間?そんなことはない。映画のレディースデー。…男子である僕と先輩には関係ない。
そこまでほいほい考えて、僕はふとひらめいた。
「僕の誕生日です」
「おめでとう」
それは僕が問題の正解を当てたことに対するおめでとうですか、それとも。
そこまで言いかけて、僕は固まった。何故なら先輩の手が僕の右肩に触れていて、椅子に座っている僕がいつのまにか立っていた先輩に見下ろされる状況にあったからだ。馬鹿でも分かるまじでKISSする五秒前くらいのシチュエーションである。なんだこれは夢か。オフィスラブか。
しかし。
「ちょっおっと先輩!」
その一秒後、僕は憤りも露に立ち上がった。先輩はもう僕に背を向けて歩き出している。
「お祝いなら口にしてくれたって良いじゃないですかあ」
そう、先輩はつれないことに僕の期待を裏切って口ではなく頬に口付けたのである。しかも一瞬触れる程度の。僕としてはあんな雰囲気醸し出しといて、どうせなら口にしてくれと言いたいところだ…言ったけれど。こんな、こんな僕の純情を弄んでお終いですか。
「毎度煩いなあ君は」
「先輩はそうおっしゃりますがね、考えても見てくださいよ。この生殺し具合!盛り上がった途端拍子抜け!」
先輩は言葉通り煩わしそうな顔をしている。一歩間違えば獣と化した部下に飛び掛かられてもおかしくない状況なのを分かってるのだろうかこの人は。それか絶対的な実力差、すなわち優位を確信してその態度なわけか。面白くない。
「これでもサービスした方なんだけれどね」
確かに、僕自身自分の誕生日なんて忘れていたわけで、当然先輩から祝ってもらえるとは思っていなかったのだけれど。
僕はぐっと堪えた。
「じゃあ今回はこれで満足します。ですが一つだけ」
「…なにかな」
「これと同じ方法で比嘉先輩の誕生日祝ったら駄目ですからね」
間違いなく野獣と化す。あの先輩はつくづくどうしようもないガチホモだ。
「分かったよ。それじゃ、ちょっと出掛けてくるから」
…響先輩のブラコンもある意味良い勝負かもしれないけれど。
先輩はあっさりとそう言うと…本当に分かったのかどうかは分からない…律儀にドアから出て行った。