「馬鹿が…」
これが今日、先輩が僕に向けて放った第一声である。
先輩はいつもにも増して不機嫌そうである。そういう顔してると弟さんによく似てますね!と言ったら横っ面を殴られた。せめて平手でお願いしますよ…。ただでさえ手が早いんだから。

「怪我人が減らず口を叩くから悪いのさ」
「すみません」

ここは素直に謝っておく。確かに仕事中に部下が怪我したなんて先輩にとっては迷惑以外の何物でもないだろう。
例えそれが些細なものであっても、こうして先輩の手を煩わせていることには変わりない。
…ああ、実は術者を殺すときに余所見して、うっかり足に噛みつかれたのだ。術者にしてみればまさに死にもの狂いであったろうから、もうめりめり食い込むのなんのって。帰ったら比嘉先輩の嫌な消毒が待ってるな。
先輩はひとまず僕の足に包帯を…とそんなものこの人に限って持ち歩いているわけがないので、包帯の代わりに僕のワイシャツを引き裂いて巻き付けた。さすが先輩、色んな意味で酷い。容赦がない。鳥肌ものだ。

「移動する気力はあるかい」

ある。が、僕としては先輩に連れていって欲しいというものである。複雑な乙女…男心なのだ。すると先輩は無表情のまま「分かった」と一言。この人の性格からして僕に甘えられたらとても嫌そうな顔をしそうなものだが、怪我をしている場合は別らしい。

「さすが先輩お優しい!」

聞き流された。もはや日常茶飯事だ。全くこの人はそんなにも僕に優しくしたくないのか。まあここはこの人特有の捻くれた愛情表現として受け取っておく方が得策であり賢明である。何故か?単純に興味を抱かれていないだけだとしたら悲し過ぎるからだ。人間はポジティブに生きることこそが大事なのだ。ネガティブなことばかり考えていたらいくら首を吊っても足りない。
とまあ僕と先輩は一瞬にして組織内部へ舞い戻ったのだった。先輩が連絡したのか、比嘉先輩が手を振り振りしつつ待っていた。

「よお、噛まれたんだってな」

比嘉先輩は嬉しそうに笑っている。変態だからだ。此処の研究要員には総じて変態的な輩が多い。その中ではまともな方ではあるけれど。一方、響先輩は僕を比嘉先輩に向かって突き出しながら、冷めた面持ちで言った。

「もしかしたら悪い虫が入ったかもしれない」

悪い虫?なんだそれは。先輩は眼を伏せたまま、僕の足の傷口を見ているようだった。

「まさか僕は死ぬんですか」
「それこそまさかだよ。ただちょっと……君はどう思う?」

先輩は比嘉先輩に話を振った。比嘉先輩も顎に手を当てて「うーん」と唸っている。それからぺろりと僕の下衣の裾を捲り上げて、再び唸り。現状は僕の思っているより深刻なのだろうか。痛みも痒みも感じていなかったものだから、彼らが何を思って唸っているのか見当もつかない。そんな僕の状況を見かねたのか、響先輩が口を開いた。

「前もって言っておかなかった私が悪いのかもしれないけれど、今日狩りに行った連中は特別でね。汚染されていたんだ」
「病原体ですか」
「そう…まあそのようなものだね。大丈夫さ、抗生物質を打てば発熱程度で済む」

いけしゃあしゃあと。つまり薬を打たなかったら発熱程度で済まない状況が引き起こされるわけであって。
そこで比嘉先輩。

「あ、悪いが今切らしてるんだ。入荷するまで待ってくれ」

と他人事であるが故の気楽さで言って退けた。本当にこの先輩方はろくでなしだ。人でなしである。僕は憤慨してみた。

「なら僕はどうなるんです」

心底焦っているわけではない。病原体だろうとなんだろうと成るものは成るようにしかならないのだから。
しかしそこはお優しい響先輩、多少は責任を感じてはいるのか、眉を寄せた。それとも何だ、この部下がそこらでのたれ死のうが放っておくような素敵な先輩が、責任を重く受け止めなくてはいけないほど現状は最悪を極めているということなのだろうか。確かに立派な監督不届きではあるだろうし、むしろ明らかな説明不足ではあるのだが、結局噛まれたのは僕の気の緩みが原因である。おそらく先輩の所為ではあるまい…おそらく。
ただ、薬を切らしているとか抜かす研究要員には大いに責任を感じてもらいたい。その手の任務が入っているのに薬を切らしておくとか尋常ではまず考え難いことだろうに。嫌がらせか。

「面倒だな…」

響先輩心中の声が漏れてますよ。どうせ眉を寄せたのだって、弟さんに会いに行ける時間が減るだとか考えていたからなのだろう。このブラコンめ。如何ともし難い弟馬鹿だ。



それから先輩は大変珍しいことに数日間組織内に留まっている。
きっと頭の中は外界のことで一杯だろうにそんな素振りも見せずに…まあたまにぼんやり物思いに耽っている様子は見られるが…僕のベッドの傍らに居座っている。僕の両手両足はバンドで固定され、まるで薬が切れると暴れ回る患者を相手にされているような心境だ。抗生物質自体は生産が追いついていないというか滅多に需要があるものではないから、取り寄せるにも時間がかかっているらしい。…とはいえ、この数日で僕は暴れたりした覚えはない。先輩曰く、
「人によって潜伏期間、効果に違いがあるから一概には言えないのさ」とのことだ。先輩が傍にいるのは僕が暴れて見境もなくなったときのためらしいが、全くもってろくでもない。僕は獣か。どうせならベッドの中でのみの獣になりたいのだが、相手をしてくれそうな人がいない。比嘉先輩?いくらあの人がガチホモでも嫌だ。
僕の中の何か大事なものが失われるような気がする。

「それにしても、君も静かな病人だなあ、面白みもへったくれもないよ」

この人は人生に楽しみばかり求め過ぎなのだ。世の中には楽しくないこともたくさんある。

「先輩は僕にこのバンドをぶち切って暴れて欲しいんですか」
「その方がまだね…押さえ甲斐があるというものだろう。これじゃあただの看病、付添人だ」
「どちらかと言えば、僕が先輩を押さえつけたいですね」
「ずっとベッドに拘束されていると、人は夢物語ばかり考えるようになるものだよ」

先輩は雑誌をぱらぱらと読み耽りながら、時々凝った指先を解すようににぎにぎしている。この人の場合、少年漫画や少女漫画でも読んで、ちょっとは純情だった少年時代を思い起こした方が良いのではないかと思う。センチメンタルで感情的な面もないわけではないのだが、大抵この手の一種寛容な反応しか示さない。何だかとても相手にされていないのである。

「せんぱーい」
「添い寝が欲しくなったらいつでも比嘉を呼んで来てあげよう」
「いらないですというか先輩は何故あの比嘉先輩とご友人なんです?」
「別に。あいつが勝手に絡んで来ただけさ」

あのホモ。絶対顔で友人選んでるだろ…と内心で暴言を吐きかけて、僕は眼を閉じた。…らしくないけれどやはり僕も真っ黒い術者のお仲間なんだなあと思う。指先がむずむずしてきた。そろそろ誰か殺したい。数日間籠りきりで、それは先輩も同じはずだが、彼は全く顔に出さない。

「先輩」
「駄目だよ」

先輩は頬杖をついて眠そうに僕を見下ろしながら一言。淡々とした声色から、内心の葛藤は読み取れない。しかし、もう一度名を呼ぶと、先輩は珍しく口の端を笑みの形に持ち上げた。頬杖も崩し、両手を組んで顎を乗せるような姿勢になる。僕は思う。…この人、僕がむずむずしているのを見て楽しそうだと。挙げ句、

「いやあ、可哀想だねえ君は」

とまで言った。巫山戯た人だ。僕は未だにこの先輩が優しいのか意地が悪いのかよく分からない。楽しければ何でも良いのだろうということは分かっている。根っからの快楽主義者なのだこの人は。何せ部下が苦しんでいるのを見て嬉しそうな声を出すのだから。比嘉先輩とは違った意味で変態である。
脳内が軽く霧がかってきた。何せ先輩という人間が目の前にいるものだから、心臓のど真ん中にある組織もころせーころせーと煩いのである。このメカニズムもよく分からないもので、時々僕らは自分の意志で動いているのかこの組織に命令されて動いているのか分からなくなるのだ。これは結構恐ろしいことのように思えるが、僕はいつのまにか慣れてしまった。勿論生理的に受け付けられなくて、気を違えてしまう人もいるにはいるわけだが、それはこの組織の中では弱者としてあっさり切り捨てられる。
そして時に、そんな彼らは僕のように慣れてしまった人間こそ気違いのような眼で見るのだ。あながち間違ってもいないが。
僕がバンドを引きちぎって伸ばした手を、響先輩の手が掴んだ。これで手を優しく重ねてくれるだけならまだ本当に看病のようで心もほんわかするというものだが、この先輩に限ってそれはない。彼は容赦ない力で僕の手を握りしめ、ベッドに押し戻した。
「やっぱりこんな安物バンドじゃ駄目だなあ」と、言いながら。



数日後、僕は回復した。
あの後、僕は何度か暴れたらしく、その度に響先輩によって撃沈させられたとのことだ。まあ…ですよね。
そんな調子でずっと付き添っていた先輩は名残も感慨もくそもなく、「ああ、良かった」とだけ言って席を立った。この人にとって回復した僕は何の面白みもないのだろう。僕は少しばかり傷心な自分を労りながら、それこそ数日振りにベッドから抜け出した。無論トイレのときは別としてだ。
久々に見るカレンダーは無駄に日にちばかり経過していて、僕は視線で文字列を追って行くうちに、とあることに気付いてしまった。…ノルマだ。
僕は廊下を歩き去って行く先輩に後ろから飛びつこうとした。先輩はそれを避け…なかった。何事だ、天変地異か。そう思って油断したら、ぺんとはらわれた。あれか、病み上がりだからって多少の手加減でも加えたおつもりですか。
しかし振り向いた先輩は普通の顔…嬉しそうでもなければ不機嫌そうでもなく、ましてや可笑しくなったわけでもなく、本当に普通の顔をしていた。

「なんだい」
「あの、ノルマ」
「もう済んでるよ。じゃあ」

もう一度ぺんとはらわれて、僕は鼻っ柱を押さえてその先輩の背を見送った。…だが一体全体、済ませたっていつ。あんたずっと僕の傍にいたじゃないですか。
そんな気持ちで見送っていた僕の数メートル先で、彼がぴたりと足を止めた。振り返る。それはそれはにっこりと嬉しそうな笑みで。

「次回のノルマ、君の分二倍にしておくから」

僕は目眩を感じた。それはもう、二重の意味で。




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